【受動意識仮説】 「私」は、「私」を動かしているの?

回転寿司。
私の目の前を流れるお皿。
私は「シメサバ」のお皿を取ろうと手を伸ばします。
 
さてこの時、私の体の中では、どのようなことが起きているのでしょうか?
以下に私が「シメサバ」を取るまでに発生するイベントを3つ挙げます。
これらは、どのような発生順序になると思いますか?
(a)「シメサバ」を食べたいと思う。
(b)「脳」から、腕の筋肉に手を伸ばすよう指示を出す。
(c)「シメサバ」を取るために腕を伸ばす。
 
 
まあ普通に考えると、(a)→(b)→(c)ですよね。
 
・・・ですが実態は、(b)→(a)→(c)なのです。
 
私が、「シメサバ」を食べたいと意識する前に、
既に「脳」は腕の筋肉に手を伸ばすよう指示を出しているのです。
 
カリフォルニア大学のベンジャミン・リベット博士は、
実際に、このことを実験で確かめました。
例えば、人が指を動かすという動作。
「指を動かそう」と意識をする0.35秒前に、
既に「脳」は指の筋肉に対して、動くよう指示を出しています。
そして、「指を動かそう」と意識した0.2秒後に、指が動くこととなります。
 
このことから、何がわかるのか?
 
まずは、「脳」が指の筋肉に指示を出してから、
実際に指が動くのにかかる時間は約0.5秒であるということ。
そして、より重要なことは、
あなたの「意識」よりも0.35秒早く、「脳」は指を動かすことを決めていたということです。
 
「???」
イメージ湧きませんよね。
 
この不可解な振る舞いの意味を解くには、
前野隆司教授の「受動意識仮説」を知ることがよい方法だと思います。
 
興味のある方は、以下の前野教授の講義のユーチューブをご覧下さい。
1時間半の動画ですが、観る価値はあると思います。
「自分とは何か?」という疑問をお持ちの方には、とても有意義な内容です。

 
前野教授の「受動意識仮説」によると、
脳の中には無数の小人がいると考えます。
視覚とつながっている小人。
嗅覚とつながっている小人。
記憶とつながっている小人。
 
この小人達の集合を「無意識」と呼んでもよいかもしれません。
小人達は、必要なときに大きな声を上げます。
例えば、目の前を親しい友人が歩いていたとき、
視覚とつながっている小人が事態を察知して、脳内で少し活性化します。
この活性化に応じて、
記憶とつながっている小人が目の前の人間が友人であると判断して、更に活性化します。
そして、脳内の小人達が話し合い、親しい友人に声をかけようと、
足を速める指示を足の筋肉に出す訳です。
 
ところで、上記の過程には「意識」が関与していません。
外部情報を脳の小人が機械的に処理し、
足を速めるという筋肉へのアウトプットを機械的に行ったに過ぎないのです。
一連の動作には「意識」は必要なく、
「あ、友人がいるから声をかけよう」という意識が、後付で認識されるに過ぎません。
 
一体、「意識」は何をしているのか?
当たり前にあると思っていた「自由意思」は、本当にあるのか?
 
 
・・・「意識」は受動的なのです。
映画館の椅子にくくりつけられて、
強制的に映画を見せられている人を想像してください。
「時計仕掛けのオレンジ」という映画を観たことがある人は、
この場面を想像しやすいと思います。
 
「意識」は単なる観客。
小人達が合議で行っている決定事項を、映画として鑑賞させられているに過ぎません。
まあ映画は映画でも、見せられているものが現実だと錯覚をしてしまう程の
ものすごいバーチャルリアリティの映画なのですが。
 
なぜ「意識」は、映画を強制的に見せられ続けるのか?
「それはエピソード記憶を持つため」と前野教授は説明されています。
人間は、常に莫大な外部情報のインプットにさらされています。
この外部情報を全て記憶しようとしたら、頭の容量はパンク。
だから、必要な情報だけをアルバムとして残す必要があるのです。
この後世に残すべき情報としてのアルバムが「エピソード記憶」という訳です。
アルバムを作るために、映画館の椅子に縛り付けられた「意識」という観客は、
ダイジェスト版として加工済の経験を、死ぬまで「体験」させられています。
 
「受動意識仮説」によると、
私たちが「私」と感じている部分に、「自由意思」は存在しないようです。
そうではなく、「無意識」というもっと上位のものが意思決定を行っています。
「無意識」は、小人の集まり。
すなわち、個(ニューロン)の集合体です。
粘菌やクラゲのように、複数の個が協力して、
あたかもその集団全体が一つの個であるかのように意思決定がなされています。
 
 
さて、ここからは私の私論です。
じゃあ、この苦しんだり喜んだり悩んだりしている
「私」という「意識」はなんなのでしょうか?
前野教授は、「意識」は「幻想」だとおっしゃっています。
 
しかし、綺麗な景色を見て、
「きれいだなぁ」と感じる「意識」は本当に「幻想」なのでしょうか?
う〜ん・・・私は、「幻想」ではなく「今ここにいる」と感じている「意識」は
リアルに存在しているんじゃないのかなと思っています。
確かに、体を動かす決定権は「意識」にはないのでしょう。
しかし「体験者」としての「意識」は、やはり存在するのではないかと考えます。
なぜ「体験者」が必要なのかというと、
それは、「体験」に「意味」をつける「批評家」の役割を「意識」が担っているためです。
「体験」は、「意識」によって「意味」付けされて初めて、
今後の行動パターンを決定する重要なデータの一つとして、
フィードバック可能な情報に加工されます。
 
さて、この「意識」という「批評家」は、何を根拠に「体験」をジャッジするか?
それは、「批評家」が持っている「価値観」。「真」「善」「美」です。
 
例えば、友人の誘いに乗り、万引きをしたとします。
この時、この体験を「面白いこと」と判断するのか、「悪いこと」と判断するのか。
どう判断するかで、「記憶」の「意味」が変わり、
今後の「無意識」の小人達の決定にも影響を及ぼすでしょう。
 
私は、この「体験」に「意味」づけを行う「価値観」こそが、
「私」という「意識」の本質なのではないかなと考えています。
そう考えると、「私」という「意識」が映画館の座席に括りつけられている本当の意味は、
「価値観」の成長にあるのではないかと考察する次第です。
 
映画「時計仕掛けのオレンジ」では、
性犯罪者の主人公を更生させるために、
体制側が椅子に主人公を縛り付けて、瞬きもさせないようにして、
性的な映画を強制的に見せ続けます。
そのうち、主人公は性に対して反射的に吐き気を催すほど嫌悪を抱くようになるのです。
 
まあ、この映画の例は、外部からの価値観の強制的な植え付けなので、
非常にネガティブな内容です。
私たちの中で、実際に行われている「私」という「意識」の参加する映画鑑賞会では、
外部からの「価値観」を強制されることはありません。
あくまで、「私」という「意識」が自由に持つ「真」「善」「美」を基に、
映画の批評を行う訳です。
ここら辺は、
以前ブログで紹介した「フランクル心理学」の「態度価値」に通じる部分でもあります。
 
 
前野教授は、こういった物事を主体的に「体験」しているという感じすら
「錯覚」だとしています。
つまり、「自我」は幻のようなものであると。
 
詳しくは、上記ユーチューブで説明されています。
また、前野教授の書籍の
『錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった』 筑摩書房
にも詳しく書かれているとのことです。
 
はたして、「私」とは何なのか?
現在の科学の進展により、「私」という存在のベールは、だいぶ剥がれてきたように思います。
この「私」の正体を知ろうとする努力は、
この世界に生まれた目的や意味を理解するうえで、非常に重要な努力です。