「他力本願」から気づいたこと
先日、「こんな時 親鸞さんなら、こう答える」という書籍を読みました。
川村妙慶さんという、1日で200件の身の上相談が殺到する尼さんが書かれた本です。
少し親鸞(しんらん)聖人について、おさらいしましょう。
親鸞聖人は、
日本の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22,000ヶ寺)、信徒を擁する浄土真宗の開祖です。
鎌倉時代前半から中期にかけて活躍された方で、
当時の僧侶や在家といった仏教のエリート層以外の民衆を救済しようとしました。
そのため当時、独自の寺院を持つ事はせず、
各地につつましい念仏道場を設けて教化する形をとったのです。
阿弥陀如来の「あらゆる人々を救う」という本願を信心し、
「南無阿弥陀佛」という念仏を唱えることを重視しました。
(親鸞上人のウィキペディアは、こちら)
(浄土真宗のウィキペディアは、こちら)
さて今日は「他力本願」という言葉をご紹介しようと思ったのですが、
親鸞聖人や浄土真宗のことを調べているうちに、
これは相当深い言葉だと、少々焦っています。
なにしろ「他力本願」は、浄土真宗の根本を構成する言葉だからです。
ですので今回はあくまで、
上記書籍「こんな時 親鸞さんなら、こう答える」を読んで感じた
「他力本願」という言葉からくみ取った自分なりの気づきを描いていきたいと思います。
その気づきとは、「自力本願」からの脱却です。
この現代社会、
「自分を救うのは自分だ」という考え方が非常に浸透しているように感じます。
「他力解決」は甘えであり、「自力解決」が美徳だという風潮です。
私も、降りかかる苦しみから脱却するには、
自分で考えて自分で行動するしかないと信じてきました。
しかし、この「自分で」「自分で」という考え方に執着しすぎると、
実は逆に、本当の解決から遠のいてしまうことが多いようです。
現に、4年間半も「自力」の「考察」を重ねてきた私ですが、
未だに「苦しみ」から脱却できていません。
「自力本願」に固執するあまり、「全体」が観えていなかったようです。
どんなに注意深く自分を眺めても、誰よりも凡夫である自分にため息が出るばかり。
「この無能な凡夫が、この先生き残るには?」といくら考えても、
自分が「無能な凡夫」である以上、あまりバラ色の解決策は出てきません。
そうではなくて、一度自分を手放すのです。
自分を、自分という特別枠(檻)から解放し、
他の人達と横一線に並べてみる。
必要であれば、他の生命とも横一線に並べてみる。
そうやって自分を冷静に俯瞰したとき、
自分は本当に最悪な劣等生なのか?考えてみることです。
誰かと自分を対比するのではなく、
次元を一つ上げて全体の中の一粒として自分を眺めたとき、
自分は他者とそんなに大差がある存在なのか?
結局、「無能な凡夫」と評して自分を苦しめていたのは、自分だったことに気づきます。
自分を許していなかったのは、自分だったのです。
自分を手放し、自分を許し、そうして「ありのまま」の自分を冷静にキャッチする。
「ありのまま」を受け入れて、さてどうしよう?
「他力本願」という言葉は私にとって、
自分で自分を閉じ込めていた檻から私を解放してくれて、
私をちゃんとしたスタート地点に立たせてくれる言葉なのでした。