人間関係を通信簿の項目として捉える
「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざがあります。
多神教の日本人らしい言葉です。
故事ことわざ辞典によりますと
世の中には様々な人がいて、
自分のことを見限って相手にしてくれない人もいれば、
その一方で救いの手を差し伸べてくれる人もいる。
日本には八百万の神がいるのだから、
不運なことや非難されるようなことがあっても、
くよくよしなくてもよいという教え。
というような解釈が加えられています。
一神教の世界で神に嫌われたら、
その人は神に好かれるべく、
自分を変える努力をしないといけない訳です。
変わらなければ、その人には生きる価値がありません。
絶対の存在である唯一神に嫌われているのですから。
しかし八百万の神がいる日本では、
幾人かの神に嫌われようとも、
自分のことを気にかけて励ましてくれる神もいるよ、という話になります。
このような神々の異なる視点は、
自身の内面を多面的に評価することを助けてくれる訳です。
一神教的価値観だと、
通信簿の項目が一つしかありません。
当然全ての人々が異なるあり方をしているので、
全員が「5」の評価になることもなく、
「5」の人もいれば、「1」の人も出てきてしまうのです。
多神教的価値観ですと、
通信簿の項目が無数にありますから、
ある人からは「1」の評価をされたけど、
違う人からは「4」の評価をしてもらったということになります。
このような多面的評価を意識できている場合、
「自分は世界にとって必要のない人間なんだ」という極端な思想に陥らない訳です。
実際私は、昨日このような経験をしました。
私のことを「優しい」と言ってくれた人がいたのです。
「1」評価をくらって絶望していた私は、とても救われました。
その時、自分を評価する通信簿の項目って一つだけじゃないんだなぁと実感したのです。
もちろん「1」評価の項目も、真摯に受け止めなくてはいけません。
それは、それで有り難いことなのです。
その痛い評価は、自分を成長させるチャンスをくれます。
しかし「1」評価ばっかりに視線を釘付けにすると、
自分を成長させる元気が湧いてこないのも、実情です。
皆と同じように生きているのに「1」評価の自分は、
そもそも欠陥品ではないかとの悪い思い込みが自分を襲います。
そうじゃなくて、人の数だけ通信簿の項目はあるのです。
私が体験したように、
「1」の評価もあれば、「4」や「5」の評価をしてくれる人もいます。
複数の項目によって多面的に評価されれば、自分が欠陥品とは思わなくなるはずです。
多面的自己評価は、人をニュートラルな存在に引き留めてくれます。
神は、一人なのか、無数にいるのか、それは私にはわかりませんが、
少なくとも、人は無数に存在するのです。
そうであるならば、自身を評価する通信簿の項目も、絶対的に無数に存在します。
そして、人の価値観は驚くほど多様です。
この人の多様性に、私は世界の慈悲深さを感じます。
この慈悲深い世の中では、オール「1」の評価になるなんてあり得ないのです。
あなたや私は、一つの項目のみで評価されるほど、薄っぺらい存在ではありません。
そこは間違いなく自信を持ってよいと想うのです。
だって、どれだけの長い年月を悩みながらも懸命に生きてきたのか。
ですから、一つの項目が「1」になったからと言って絶望はせずに、
自分にはそういう面もあるんだなと、そこを軽やかに受け入れていきたいなと想います。
忘れてはいけないのは、自分の中には必ず「4」や「5」の面もあるということです。
そう考えると、人間はサイコロのようなものですね。
たまたま続けて「1」が出たからと言って、永遠に「1」が出続けることなんてありません。
もし永遠に「1」が出ると妄想しているのなら、
それは「1」の存在感が大きすぎて、
「5」や「6」の目が出ているのに気づいていないのでしょう。
