生きていて、何を見るか?
Two men look out through the same bars: one sees the mud, and one the stars.
「二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。 一人は泥を見た。一人は星を見た。」
フレデリック・ラングブリッジというアイルランドの作家の
「不滅の詩」という作品に登場する言葉です。
この言葉は人気漫画「ジョジョの奇妙な冒険」で引用され、
日本で有名になりました。
この言葉は、どのような意味でしょうか?
この言葉を紹介しているWebページを見ると、
「人間はどんな状況においても、良いものだけを見つめるべきである。」
と書いているものもあります。
しかし本当の意味合いは、この言葉の通り、
それぞれの読み手が「この言葉に何を見るか?」にかかっているのではないでしょうか?
答えはないと思います。
言葉は生み出されたその瞬間から、一人歩きするものです。
作者の想定する意味ですら、正解ではありません。
あるのはこの言葉のみで、各人がこの言葉から感じたことが全てです。
この言葉は、ネット上のミーム(meme)になっています。
この言葉は、優れた遺伝子のごとく、
ネット上で複製され、多くの人の脳を介して更に複製され、
情報の自然淘汰を生き残っているのです。
私もこの言葉を、「ジョジョの奇妙な冒険」でなく、ネット上で知りました。
そして今度は、この私のブログでこの言葉は複製された訳です。
(ミームのウィキペディアは、こちら)
(ミームの過去ブログは、こちら)
ネットの海で繰り返し複製されたこの言葉は、
かように多くの人の「心」に何かを残してきました。
何か感じるものがあったのです。
私は、この言葉に「生き方」を見ます。
おそらく「泥」と「星」の差ほど、
人が「世界」に対して見ているものは違うと感じるのです。
そして、その見方は各人に染みついてしまって、変更は容易でないと考えます。
ですので、「泥」を見ている人は、本当に一生「泥」を見て生きる可能性が高い訳です。
心理学者ユングの提唱した性格の区分に、
「内向的」と「外向的」という区分があります。
(上記性格区分に関する過去ブログは、こちら)
ウィキペディアによると、
自我は、その関心を、周囲の環境である「外的世界」に向ける場合と、
こころの世界である「内的世界」に向ける場合がある。
主として、行為の動機を外的世界から引き出す人と、内的世界から引き出す人では、
心的エネルギーの方向ひいては自我のありように差異が存在し、
ここから二つの性格類型が分かれるとされた。
と、「内向的」「外向的」について説明しています。
例えば、「内向的」な人が、明日から「外向的」になることができるでしょうか?
私は「内向的」な人間ですが、「そんなことはできない」と断言できます。
私の解釈では、「外向的」な人々とは、
自分の周囲の人に「関心」を向けて生きる人々です。
「???。一人一人の人に、関心を向けるほどの何かがあるのかな?」
私には、「外向的」に生きている人が、どんな風に生きているか想像すらできないのです。
「内向的」な私は、自分の内面ひいては「世界」に、「関心」を持ちます。
「外向的」な人から見たら、私は「泥」を見ているように感じるでしょう。
しかし私は、「泥」を見つめる囚人が、「星」を見つめる囚人よりも、
劣った「人生」を生きているようには感じません。
現に「関心」を持っているのですから、それぞれに「意味」があるはずです。
「泥」に「意味」を見出さなければ、「泥」を見つめ続けることなどしませんよ。
ですから私は、
「外向的」な人を「何でそんな下らないことに関心を持っているの?」と、
バカにすることができませんし、
その逆も然りなのです。
見つめているなら、必ずそこに「意味」があります。
Two men look out through the same bars: one sees the mud, and one the stars.
「二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。 一人は泥を見た。一人は星を見た。」
これが「生きる」ということです。
一人は「泥」を見つめて生き、一人は「星」を見つめて生きました。
ただ、それだけです。
この言葉を引用した漫画「ジョジョの奇妙な冒険」では、
主人公ジョジョと敵役ディオの二人を、象徴する言葉として登場させています。
私には、この言葉を使うことで、二人に優劣をつけようとは感じられないのです。
作者である荒木飛呂彦さんは、愛情を込めて双方を描き、
敵役のディオもカリスマ的な悪者として読者を魅了しています。
ジョジョもディオも、それぞれの「人生」を生ききった一人の人間なのです。