神は「絶対」か?

 
「絶対」
 
goo辞書によりますと、
「他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。」
と、あります。
 
対立するものが絶えているから、「絶対」なんですね。
 
またコトバンクによりますと、

相対の対立概念。
思考においても実在においても一切他者に依存せず
それ自体として自律的に存在し自己のうちに存在の根拠を有するものをいう。
認識論的には、
そのものについてのわれわれの表象とは独立に存在しているもの、ものそれ自体。
宗教哲学ではキリスト教のように超越的な神の別名となる場合と
仏教のように悟りの境地を称する場合とがある。

という解説がなされています。
 
「絶対」とは、「相対」の対立概念です。
そして「相対」とはgoo辞典によりますと、
「他との関係の上に存在あるいは成立していること」という意味になります。
 
ふむふむ、なるほど。
そうすると、私たち人間の存在は「絶対」ではなく、
「相対」ということになりますかね。
いかに人間の王と言えども、
臣下や国民がいなければ、
存在することはできないからです。
 
次に、神について考えてみましょう。
神は「絶対」でしょうか?
神は、思考においても実在においても一切他者に依存せず、
それ自体として自律的に存在し自己のうちに存在の根拠を有するものでしょうか?
 
人が神に依存することはあっても、
神は人に依存することはないのか?
 
紀元前6世紀に古代ペルシアで誕生したゾロアスター教という宗教があります。
ウィキペディアは、こちら
当時王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが、
最高神アフラ・マズダーを信仰していました。
世界最古の一神教です。
 
しかし隆盛を極めたゾロアスター教も、
現在ではその信者は、インドやイラン等にわずかに存在するだけとなっています。
 
アフラ・マズダーは「神」ですが、
人々が信仰しなくなっても「神」は「神」であり続けるのですかね。
少なくとも、ゾロアスター教を知らない人たちにとっては、
アフラ・マズダーは存在しないと言えるかもしれません。
 
極論を言えば、人類が絶滅した後も「神」は存在し続けるのか?という話です。
 
私は、人類が絶滅したら、「神」も存在しなくなると考えます。
「神」とは、概念なのです。
 
「神」は、我々「生命」が創造(想像)しました。
かと言って、「神」よりも「人類」が上とは思わないです。
「神」という概念は、人類の上に君臨すると考えます。
 
アフラ・マズダーは、ウィキペディアによりますと、

アフラ・マズダー (Ahura Mazdā) は、ゾロアスター教最高神である。
宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。
その名は「智恵ある神」を意味し、
善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。
ゾロアスター教の神学では、この世界の歴史は、
善神スプンタ・マンユと悪神アンラ・マンユらとの
戦いの歴史そのものであるとされる。
そして、世界の終末の日に最後の審判を下し、
善なるものと悪しきものを再び分離するのがアフラ・マズダーの役目である。
その意味では、彼は善悪の対立を超越して両者を裁く絶対の存在とも言える。

と説明されています。
そんなにすごい「神」なら、私はその存在を尊敬するのです。
 
ところで私は、ユングの提唱した集合的無意識に賛同しています。
「神」とは、我々生命の集合意識の中でも、
最上位に位置する「概念」ではないでしょうか。
 
我々「生命」の中で、最も尊い部分が「神」なのだと考えます。
 
私の中では、「神」という概念を生み出した「生命」ってすごい!って感じです。
 
「相対」的存在である我々「生命」は、
「神」という「絶対」的概念を生み出しました。
何十億年という「生存」の苦悩の末に、
私たちは自分たちの意識の中に「神」を有することになったのです。
 
私は、この世界全てのものが「相対」であると考えています。
仏教が、因果律で説明しているとおりです。
 
しかし「相対」は、「苦しみ」でもあります。
常に誰かの影響を受ける状態では、「苦しみ」の種は尽きないでしょう?
 
そうした時に私たち「生命」は、
意識の中に「絶対」を生み出して、そこに住まおうと願いました。
 
「神」は「絶対」か?
 
私たち「生命」が途絶えれば、「神」は存在できません。
なので、「神」は「絶対」ではなく「相対」なのです。
一方で、私たち「生命」は、「神」を「絶対」の概念として生み出しました。
ですから、「神」の成り立ちから考えると、「神」は「絶対」なのです。
 
はてさて、あなたは「神」の「絶対」を信じますか?