「躾(しつけ)」と「シャドウ」と「負の連鎖」

以前、「「5S」と「ホウ・レン・ソウ」とそれらをやる「意味」」というブログを描きました。
フェイスブックの「いいね!」を7つ頂いた作品です。
 
この中の話しの一つとして、
私は、「5S」の「躾(しつけ)」というものに懐疑的であることを明かしました。
 
「躾(しつけ)」というのは、他者の行動を変える一手法のことです。
ウィキペディアには、以下のような説明があります。
――(以下引用)―――――――――――――――――――――――――
 しつけとは、教育することと言い換えても良いが、
 教育一般よりも生活全般に根ざした、
 更に根源的な事柄にまつわる部分を教えていく行為を指す。
 特に言葉が理解出来ない幼児の教育に関しては、
 様々な態度で接することで
 「やって良いこと(=誉められる)」「やってはいけないこと(=罰せられる)」の
 区別をつけさせることでもある。
 (中略)
 しつけをすることは、
 自由に伸び伸びと育てる(または放任してしまう)ことの対極にあると考えられている。
 一定の厳しさをもって育てていくことを含んでおり、
 体罰を科す場合も見られ、
 これらが児童虐待に発展する事例も見受けられることもあるため、
 しつけ行為そのものが児童虐待だと考える向きもある。
 しかし、いずれしつけがなければ人間としての道徳規範にも関わるとの考え方もあるため、
 児童教育におけるしつけは、社会的な道徳観念やマナーが不足しているとして、
 その重要性を再認識する人も存在する。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 
私は、これまで「躾(しつけ)」というものに違和感を覚えていたのですが、
理由がわかりました。
「躾(しつけ)」は、「アメとムチ」だからです。
 
アメとムチと意味」という過去のブログに描きましたが、
人を動かすのに、「アメとムチ」は危険です。
なぜなら、人間には「自我意識」があるから。
「自我意識」がある故に、
人には「人間らしく生きたい」「自分らしく生きたい」という願望が生じるのです。
 
「自我意識」がない例えば昆虫のような「生物」は、
「アメ」のみで「幸せ」に生きていけます。
しかし、人間は「私」というものにこだわります。
「私」とは、自分の意思で動くものです。
他人の意思の影響で動くものを「私」とは呼びません。
 
あくまで、「自我意識」が「遺伝子(本能)」に抵抗して、自ら自主的に採った行動に
人は「幸せ」という価値を感じる訳ですね。
例えば、「自己実現」による努力。「与える」意思による優しさ。
 
ですので、「躾(しつけ)」によって人の行動を変えることができたとしても、
当然ながら、そこにその人の「幸せ」は存在しません。
「幸せ」が存在しない以上、
「行動」は変えることができても、「心」は変わっていないことになる訳です。
 
他者に行動を変えてもらうには、
「行動」よりも先に「自我意識」に働きかけ「心」を動かす必要があります。
すなわち、「アメとムチ」でなく「意味」を相手に投じる。
その「意味」が優れたものであるならば、人は納得し「心」が変わり「行動」が変わるのです。
 
「意味」によって人を動かす者は、相手から尊敬されます。
「躾(しつけ)」のような「アメとムチ」によって人を動かす者は、
相手から隷属されるか反発されるかです。
 
そして、「躾(しつけ)」は
児童虐待」と全く同じメカニズムで「負の連鎖」をします。
そもそも、「児童虐待」は「躾(しつけ)」の延長線上にあり、
明確に線引きすることができないものです。
 
この「負の連鎖」を説明するためには、心理学の「シャドウ」という概念が必要です。
(詳しくは、過去ブログを一読下さい)
さて、「シャドウ」をざっくり説明します。
人間は子どもの頃の親からの「躾(しつけ)」等で、
本来は持っていた「人格」を「禁止」されることがあります。
例えば、本来活発な女の子が、親から「おしとやかにしなさい」と躾けられた時、
「心」の中の「活発な女の子」の「人格」は「禁止」されます。
しかし、「禁止」された「人格」は「心」の中から消滅する訳ではないのです。
「心」の影に追いやられ、閉じ込められてしまいます。
あくまで自分の人格の一部なので、消滅させることはできません。
この、「心」の影に追いやられ禁止された「人格」を「シャドウ」と言うのです。
 
さて、この女の子は躾けられたとおり、おしとやかな子に育ちました。
この段階で、この女の子の心の中は、どのようになっているか?
相変わらず「シャドウ」は、消えずに存在し続けています。
ただし、「心」は無意識に自分自身の一部である「シャドウ」を消去したいと
強く憎むようになっているのです。
 
この行き過ぎの拒絶反応が、一つの人格障害を起こします。
実は、この凄まじい拒絶反応は、内側だけでなく、外の世界にも向いてしまうのです。
すなわち、自身の「シャドウ」と同じパターンの他者の行動や性格に対して、
相手の人格を消滅させたくなるほどに「怒り」や「不快感」を覚えてしまい、
相手の人格を否定するような言動をしてしまうのです。
「この行動だけは許せない」という「心」の急所は、誰にでもあるのではないかと思います。
大事なのは、「シャドウ」と和解して、他者を受け入れられる心を取り戻すことな訳ですね。 
 
さて、会社において従業員を躾けた際にも、従業員の中に「シャドウ」が生成されます。
従業員は「躾(しつけ)」によって、確かに行動を変えられるかもしれません。
しかし、問題は、その従業員が上司になった時に起こるのです。
上司となった彼は、ある日部下の従業員を見て、
彼らの行動に激しい「怒り」もしくは「不快感」を感じてしまいます。
「自分が禁じられた行為を、あいつらは平気でやっている。許せない!」という無意識の声。
過去の「躾(しつけ)」で作られた「シャドウ」への拒絶反応が、
その衝動の原因となっています。
彼は、「躾(しつけ)」と称して、理性的でない「心」の奥から湧き出る衝動によって、
部下の従業員に「目障りな行為」を止めさせようとする訳です。
 
このようにして、「躾(しつけ)」も「児童虐待」と同じように、
連鎖していくことになります。
 
このように考察していきますと、会社において「他者」を動かすためには、
「躾(しつけ)」よりも、「納得できる意味」を提示することが、
私は正解だと考える訳です。
部下に「躾(しつけ)」をしてやろうという衝動は、
自身の「シャドウ」に対する拒絶感から来ているものではないか?
一回、深呼吸して冷静に考えてみましょう。
 
そもそも、「躾(しつけ)」では、人は「矯正」されても、「成長」はしません。
「心」の「成長」には、「ヘーゲル弁証法」の考え方が必要です。
(「ヘーゲル弁証法」については、この過去ブログをどうぞ)
すなわち、自身の「テーゼ」を殺さずに、
相手の「アンチテーゼ」を受容するにはどうするか?
自身が悩み解答を見出すという「過程」が、「心」の「成長」には不可欠なのです。
一方「躾(しつけ)」は、「過程」を飛ばし「結果」のみを求める行為となります。
そうではなく、
相手にとって「アンチテーゼ」となる「やって欲しいことの意味」を提示して話し合い、
しっかりと一度相手を「葛藤」させるのです。
 
 「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」山本五十六さん)
 
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