「学ぶ」ということ

私のブログでは、よくこんなパターンがあります。
(1)私の「心」に「一石」を投じるような出来事や言葉がある。
(2)その投じられた「一石」が「心」の水面に「波紋」を作る。
(3)その「波紋」を観察して考察を行う。
(4)「波紋」の観察結果や考察結果を文章にする。
 
今日は、研修に終日参加していたのですが、
参加者の一人のおっしゃっていた「言葉」が、私の「心」に「波紋」を作りました。
 
どんな「言葉」かというと、
人生において「学ぶ」ということは、
学校で行われる教育とは全く正反対の特徴を有するということです。
学校で学ぶ学問には以下のような特徴があります。
(1)学べば学ぶほど難解になっていく。
 (例)「算数」→「数学」
(2)カンニングをしてはいけない。
 教師が絶対正解者であり、生徒同士で教え合うという場は創られていない。
 
しかし、社会に出てからの実際の「学び」を
学校の学問と同じように考えていると、「学び」の効率と効果は著しく低下します。
 
まず、実際の社会での「学び」は、
学べば学ぶほど、深めれば深めるほど、簡単になっていきます。
学校の学問と同様に、「学び」を「進めば進むほど難しくなる」と捉えていると、
「学び」に苦手意識を持ってしまいます。
そして、学び始めることや学び始めて深めていくことを躊躇してしまう訳です。
これは、本当にもったいないことだと思います。
本来「学び」は楽しいものなのですが、
学校の勉強の記憶が、人の無意識に対して、
「学び」は苦しいものだとささやき続けるのです。
私は、受験勉強の英語は嫌いでしたが、
社会人になって英会話教室に行ったら英語を好きになりました。
本当の「学び」は楽しいのです。
 
冷静に考えると、学校での勉強は、
「どんどん難しくなる学習内容」「偏差値による人格の肯定否定」
「進学・受験勉強のプレッシャー」というふうに、
「学び」を「責め苦」の道具に使用している感があります。
そうなると、学校での学問が苦手な人は、
「学ぶ」ことに消極的になってしまう。
本当の「学び」の楽しさに気づく機会を得られなくなってしまう。
そして、学校での学問を得意とした人ですら、
受験勉強の「責め苦」がありますから、
「学び」は苦しいものであると考えてしまうのです。
 
もし、このブログを見ている学校の先生や関係者がいらっしゃったら、
名もない社会人の教育に関する一意見として、よろしければ以下の意見を聞いて下さい。
 「もし可能なら、課外授業等を活用して、
  通信簿や成績と関係のない生徒たちが興味を持つようなジャンルの授業を行って頂き、
  学問が苦手な生徒にも、得意な生徒にも、
  是非「学び」が楽しいことであることを伝える場を創って欲しいです。」
 
次に、カンニングをしてはいけないという「タブー意識」が、
実際の「学び」には邪魔となるということについて、描いていきたいと思います。
 
社会に出てからの実際の「学び」では、
いろんな他者から、よいところをパクることが重要です。
学校では、先生や教科書からしか「学ぶ」ことを許されなかった。
生徒同士で教え合う場も提供されていないし、教え合うことを推奨もされなかった。
偏差値によるランキングがありますから、
生徒同士で教え合うということに、生徒自身もあまり積極的でありません。
 
「学び」の楽しみの一つは、「人に教える」という体験です。
「人に教える」つまり「与える」ことで得られる「感謝」「自分の価値の認識」。
そして、「人に教える」というアウトプットは、自身の「学び」にも非常に効果的です。
そして、教えらる側の生徒も、
自身と同じ立場の生徒とのコミュニケーションから、
「学び」の楽しさを知ることができます。
 
学校では、テストという本番の舞台でカンニングのような「助け合う」行為が禁じられます。
もちろん、テストの目的を考慮すると、禁止は当然のことではありますが、
その結果、学校という場でも「資本主義」の考え方が働いてしまいます。
すなわち、勉強したことで得た「知識」という資産を「所有」することの「幸せ」のみ、
生徒は意識してしまうようになるのです。
「知識」は「与えて」も減らない無形資産ですから、
本当は「与える」「幸せ」を実感できる格好の材料なんですけどね。
そして、人から「与えられる」ことが苦手な日本人に、
「与えられる」ことは自然なことであるということを
認識してもらうことにも役立つと思います。
 
またもや、このブログを見ている学校の先生や関係者がいらっしゃったら、
名もない社会人の教育に関する一意見として、よろしければ以下の意見を聞いて下さい。
 「もし可能なら、1年の中で数コマでもよいので生徒同士で教え合う時間を創って頂き、
  生徒たちに「教える楽しみ」を感じてもらうとともに、
  生徒たちの「教えてもらう」ことへの抵抗感を払拭して欲しいです。」
 
以上、本日私の「心」に投じられた「一石」と、
それによって生じた「心」の「波紋」をすくい取り、文章にしてみました。
ここまで考察してアウトプットできると、
私はその「一石」から、真に「学ぶ」ことができたのではないかと思う訳です。
 
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