「与える人」×「与える人」

題名に書いた「与える人」というのは、
私が人生を生きる上で理論に据えているライフ・マトリクスに登場する考え方です。
 

 
私は、人々は皆上記の4グループに分類されると考えており、
皆、赤ちゃんの時代は、「1」の領域からスタートし、
「4」の領域に到達することで、真の「幸せ」を手に入れられると考えています。
 
私自身が属していると考えている属性は、「3」の領域です。
なんとか「4」の領域に昇ろうと、試行錯誤しています。
 
今日は、「与える人」同士のコミュニケーションについて、描きたいと思います。
 
前日の日記にも描きましたが、
私は以前会社内の「いじめ」に悩んでいました。
その時に思ったのが、「自分」の他にも「自分」が欲しいということでした。
どういうことかと言うと、
「職場に自分のコピーが何人もいたらいいのに」と思ったのです。
ちょうど、その頃は「自分を受け入れてくれる人」に飢えていました。
職場のコミュニティの中心にいるような人物に嫌われてしまい、
「はぶ」になってしまっていたんですね。
 
当時は、なんで「自分」のコピーを職場に欲しいのかわからなかったのですが、
今考えると、「自分」だったら当然「自分」を全て知っているので、
「自分を受け入れる」ことができると考えていたのかもしれません。
 
人が嫌われるのには、2パターンあると私は考えています。
その人が「未熟」であるか「異物」であるかです。
当時、私は「未熟」であり、そして「異物」でありました。
「未熟」であることは、「成熟」しようとすれば克服できるのですが、
「異物」の方は、「正常」になろうとしてもできないので、とても辛いです。
「正常」に振る舞える人達は、「異物」に対して「拒絶」という感情を抱きます。
「異物」は、この「拒絶」により、
自分は「無価値」もしくは「世界にいてはいけない人間」だと感じてしまうのです。
ですから、「異物」は自身で自身を評価する「自立」の状態にならないと、
「幸せ」にはなれない。
 
ただ、「異物」であることで、一つ身につけられる「能力」があります。
それは、「与える人」を識別できる能力です。
 
「与える人」は、他者の「幸せ」を願う人。
他者の「幸せ」を願えるということは、
他者の中の「異物」という障がいも乗り越えて、
他者を「承認」して受け入れる力があるということです。
おそらく、自身の「シャドウ」をある程度克服した方なのではないかと思います。
(シャドウについては、過去ブログをどうぞ)
 
「異物」は、「拒絶」され続ける日常の中で、ある日突然「拒絶」しない人に出会います。
「異物」は最初、とてもびっくりします。
そして、とても恐縮します。
「こんな自分と付き合っていても、得なことなんて何もないよ」
「むしろ損するから」
しかし、相手が、損得なんていうレベルでない、もっと違う価値観で
接してくれていると感じた時、「異物」は、もう一度びっくりするのです。
 
そういった人々との希少な遭遇を重ねていくと、
だんだん「与える人」を、人々の中から「識別」する力がついていきます。
そして、「異物」は「与える人」に憧れ、
「奪う」属性から「与える」属性にシフトしようとするのです。
 
現在、私は「与える」属性にシフトできていると考えています。
そして、「与える人」を識別する能力も健在です。
 
ところで、上記の2つの要件を満たすと、できることがあります。
それが、「与える人」同士のコミュニケーションです。
このコミュニケーションは、とても心地よい。
「感情」や「本能(遺伝子)」の邪魔が入らない、信頼感の中でのコミュニケーション。
大げさに言えば、「遺伝子」によって分けられてしまった「生命」が、
つかの間、つながるような感覚。
 
もし、「与える」属性にシフトした人達しかいない国があったとしたら、
きっとそこは「理想郷」と呼ばれる所だろうと思います。
その国では、人々が直面しているあらゆる問題が解決するはずです。
このことは、相手の「幸せ」を願う場合の方が、
社会的な「幸せ」が増進するという「囚人のジレンマ」でも証明できます。
(詳しくは、過去ブログで)
 
そして、「生命全体」も「与える」方向に徐々にシフトしている。
私は、そのように楽観視しています。
「優しさ」という力を獲得した「ほ乳類」や「鳥類」。
奴隷制」を廃止して、「基本的人権」を創りあげた「人類」。
「生命」の進化の方向には、「適者生存」のダーウィニズムの他に、
もう一つの「指向性」が存在しているはずです。
 
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