「悪口」をあまり言わない人と付き合うべし

今、首を痛めています。
体調が悪くなると、よくこの症状が出るのです。
昔、くしゃみを無理矢理我慢したら、
首を痛めてしまい、それからクセになってしまいました。
 
最初に、首を痛めてしまった時は、
会社の人間関係にとても悩んでいた時期でした。
よく「くしゃみ」をすると「誰かが自分の噂をしている」と言いますよね?
それでは、続けて2回「くしゃみ」をした場合と
3回「くしゃみ」をした場合は、どのように言われているか知っていますか?
単なる語呂から来た話だと思うのですが、
2回「くしゃみ」をした場合は「誰かが自分の憎まれ口を言っている」、
3回「くしゃみ」をした場合は「風邪をひいている」と、
私は子どもの頃聞きました。
 
私は、よく「くしゃみ」を2度続けてします。
そして、会社の人間関係に悩んでいた当時、
私はこの2度の「くしゃみ」をとても恐れていました。
もともと私は、人の集団に同化することが苦手で、
「浮く」ことを、とても恐れていたのですが、
当時は、社内でいじめに合っており、
自分がいないところでされる「憎まれ口」に、
非常に怯えていたのです。
 
ある日、1度目の「くしゃみ」が出て、
2度目の「くしゃみ」が出そうになった時、
必死に2度目の「くしゃみ」を阻止しようとしました。
だけど、「くしゃみ」というのは我慢して止まるものではありません。
そして、「くしゃみ」というのは勢いがすごいものです。
結局、変な形で「くしゃみ」が出てしまい、
首を痛める結果となってしまったのです。
 
当時は、最終的に完治に1週間弱かかりました。
症状のピーク時には、首が全く回りませんでした。
そしてその後は、1年に1度くらい体調の悪い時に、
首が痛くなります。
 
今から考えると、何とも馬鹿げたことを恐れていたものだなぁと思います。
今は、2度目の「くしゃみ」も、自分の悪口も全く怖くありません。
 
「悪口」は、言う方が悪い。
この単純な事実に思いが至るようになったのは、もう少し人生経験を積んだ後でした。
それまでは「他人の評価」が、自分を評価するモノサシでした。
自分の評価を、他人のモノサシに委ねると、
自分に自信のないオドオドとした人間ができあがります。
一般的には、子どもの頃にあまり褒められた経験がなく叱責を多く受けると、
他人の挙動を気にする傾向が強くなるそうです。
 
「自分の評価は自分でする」
このスキルは、人生のなるべく早い時期に手に入れるべきスキルです。
このスキルがないと、確実に「幸せ」は手に入らないと思います。
「自分のモノサシだと、評価が偏ったり歪んだりするのではないか」と
懸念する人もいるかもしれませんが、
「プラン」→「実行」→「評価」→「修正」→「プラン」→「実行」・・・・というふうに、
自分の評価を生き方のフィードバックに活用することで、
評価の「モノサシ」自体も真っ直ぐになっていくと考える次第です。
 
そして、自分のモノサシがしっかりとしてくると、
「他人」の中でも、評価を聴くべき人と、
聴いても意味がない人を区分できるようになります。
例えば、「悪口」をよく言う人が行う自分への評価は、当てにならないです。
あくまで、発言者当人にとって都合のよい言葉しか出てきませんから。
逆に、「悪口」をあまり言わない人が言ってくれる言葉には、
学ぶべき内容が多く含まれます。
 
このことは、私が過去の体験から
「悪口」に対してトラウマを持っているから言っているのではありません。
「悪口」というものに直面して苦悩し、
「悪口」の本質を考えに考え抜いたから言えることだと思っています。
 
そう言った訳で、
首が痛くなると、「人の評価」に翻弄されていたあの頃を思い出します。
「悪口」に怯えるのは、本当に馬鹿なこと。
そして、「悪口」を言うことは、本当に未熟なことです。
 
「悪口」を言われても、気にする必要はありません。
「悪口」を言う人の「未熟さ」を理解し、自身が成長する「チャンス」だと捉えるべきです。
確かに、その「悪口」を聞いて、真に受ける人もたくさんいるかもしれません。
しかしそれとて、「災難」ではなく、
自立した「モノサシ」を創出するための「試練」と捉えるべきです。
 
現に、私は私の評価を自分で行えるようになり、私の「心」は成長しました。
 
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