「お金で買えないもの」は存在するか?

少々古いネタですが、
かつてホリエモンという人は、
「お金で何でも買える」と発言して議論を呼びました。
 
この問いかけは、「人生」を考える上で面白いテーゼです。
現代社会を語る上で、「お金」はなくてはならないもの。
皆「お金」のために、自分達の大切な「人生」を削って生きています。
 
だから、「お金」があれば、自分達の大切な「人生」を削らずに済む訳です。
これは、大きいと思います。
自分の人生を、自分のためだけに使うことができる。
「幸せ」な人生を送る上では、大きなアドバンテージとなるでしょう。
 
ところで、「買う」とは、「他者」の「所有物」を「お金」と交換する行為です。
もちろん、「所有物」は有形無形を問いません。
他者の「時間」だって「買う」ことができるでしょう。
 
「買う」とは「他者」という相手がいて成立する行為であるならば、
「買える」かどうかは、「他者」が交換を同意するかどうかにかかってきます。
「他者」が売ると判断しなければ、何兆円お金を積もうが「買え」ない訳です。
 
そこでこの問題を、「他者」視点で考えていきます。
「他者」視点に立つと見えてくるのが、
実はこの問題はずっと昔から論じられてきた問題だったということです。
すなわち、「悪魔との取引」のお話に合流していきます。
 
ある日、悪魔があなたの元にやってきて、こう言います。
「あなたに巨万の富を与えましょう。
 その代わり、あなたの魂を頂戴したい。」
まあお話しの世界では、この申し出を受けると、
ろくでもない結果が待っている訳です。
 
さて、他者に「魂」を差し出すとは、どのようなことを指すのでしょうか?
 
例えば「死んだ後、悪魔に地獄に連れて行かれて、永遠に苦しむ」とか?
まあ、こんな結果が待っているとしたら、
どんなに巨万の富を積まれても交換には応じないでしょう。
はい、ここから「お金で買えないもの」が一つわかります。
それは、「宗教」への「信仰心」です。
「宗教」とは、「人」に死後の世界を信じ込ませることで成り立ちます。
だから、「巨万の富をやるから信仰を止めろ」っていう交渉は不成立となるのです。
何しろ、「信仰」のために、自分の「命」すら捨てる人がいる訳ですから。
 
それから、「魂」を売るという言葉があります。
「巨万の富をやるから、一生俺の下僕となれ」。
これはどうでしょうか?
 
「お金」が「幸せ」に貢献する点は、
その人の人生を「仕事」から解放して、
「他者」の「意思」でなく「自分」の「意思」で生きていける「自律」した人生を
与えてくれる点にあります。
ですので、「一生俺の下僕になれ」とか、「俺と結婚しろ」とか、という願いに対して、
「自律」した人生に「幸せ」を求める人は、「Yes」とは言えないと思います。
 
「他者に支配された人生も、ある一面として幸せなのでは?」と
考える人もいるかもしれませんが、
それは「楽」という「快楽」が保証された人生であって、
「幸せ」な人生とは言えないのです。
「快楽」の追求では「幸せ」に到達できないと、私は考えます。
 
他にも、「命」よりも大切な存在は売れないでしょう。
映画「オールウェイズ3丁目の夕日」ではないですが、
「命」よりも大切にしている「子ども」を1兆円で売ってくれと言われても、
売る人はいません。
もし売る人がいたとしても、
その人はその子どものことを「命」よりも大切と思っていないだけです。
 
さて、このように種々考察していくと、
ホリエモンの提示した「お金で何でも買える」という投げかけに対して、
反論をぶつけることができるようになります。
 
それは、お金で全て買えるかは、相手によるということです。
相手が、自分の「幸せ」や「生きる意味」を持っている人ならば、
買えないものが出てきます。
それは、その人が「命」よりも大切にしているものです。
「信仰」「家族」「自律した生き方」。
自分の「幸せ」が「お金」以外のものにあると気づいている人々は、
決して手放さないものを持っているのです。
 
この資本主義社会において、「幸せ」の対象物の初期設定は「お金」です。
「幸せ」というものへの「考察」を行っていない人は、
これを書き換えることができません。
 
ですから、「お金」で何でも売ってしまう人が社会に溢れているのも、
また事実ではあるのです。
ホリエモンの言っていることも、半分は当たっていると思います。