「感情」を健全に表に出さなければいけない

対人のパターンというものは、
子どもの頃に決まり、
大人になるまでずっと定形です。
 
特に、「感情」を表に出す他者に対しどう対応するか。
強く出るのか、弱く出て被害を少なくしようとするのか。
この他者から「感情」をぶつけられた時の対人パターンは、重要です。
 
今「倍返しだ」という言葉が流行しています。
私はこのドラマを観ていないので推測で言うのですが、
おそらく「感情」や「理不尽」をぶつけてくる他者に対して、
どう反応するかというテーマが、このドラマの根底にあるのではないでしょうか?
 
「倍返し」ができる半沢直樹に、
視聴者は「心」の鬱積が晴れるような想いを感じるのだと思います。
 
つまり、「感情」や「理不尽」をぶつけてくる他者に対して、
多くの人が現実世界ではうまく対応できずストレスが抱えているからこその
高視聴率なのだと思う訳です。
 
じゃあ、私はどうなのかと言うと、
「感情」を表に出す他者に対し、子どもの頃から我慢をしていました。
それは、大人になっても同じ。
おそらく、何もしなければ死ぬまで同じでしょう。
 
我慢をするという対人パターンが板についてくると、
それ以外の選択肢や世界が見えなくなります。
他にも様々な選択肢があるにも関わらず、私の目には我慢する対応以外の道が見えない。
本当は、もっと「感情」的になったっていいし、
「理不尽」をぶつけ返したって自由です。
現に、そういう行動を取れる人は五万と存在します。
だけど、延々と同じパターンを繰り返してしまうんですね。
暗闇の中、昆虫が光に向かってしか飛べないように。
 
一度、私は対人で今までと違うパターンをあえて行ったことがあります。
これ自体、非常に勇気の要ることでしたが、
その結果大きな成果を得ることができました。
何かと言いますと、
私は今までの自分の対人パターンを、第三者視点で見ることができるようになったのです。
 
私にはちょっとした特技がありまして、
目に見えないものをイメージとして上手に想像することができます。
例えば、先程描いたように今までと違う対人パターンを採った時に、
私は「今までの私」を明確なヴィジュアルとして見ることができたのです。
その私は、箱の中に土下座の状態でうずくまり
何か太くて平べったい黒いゴム紐にがんじがらめに縛られていました。
 
それまでは、自分がそんなことになっていることにちーっとも気づきませんでした。
初めて外側から自分を眺めて、何とも情けない姿だなぁと思いました。
 
このように、自分を客観視できて初めて、
自分が他の選択肢を採れることに気づくのです。
 
「習慣の袋小路」から抜け出すと、
既存パターン以外の選択肢も公平に考慮することができます。
「感情」や「理不尽」をぶつけられた時に、
何を返すのが、自身の「心」で最も納得できることなのか?
引くべきか、耐えるべきか、「感情」を出すべきか、時には「理不尽」で返したっていい。
私は、そんな自由な「心」の持ち主になります。
 
私には、「成りたい自分」があり、「成したいこと」があるのです。
この私の「人生」という小説を完成させるために、
もっともっと「自由」で、もっともっといろいろ試してみてもよいと思います。
小説は、主人公が変化するからこそ面白いのです。
 
さあいい加減「囚われ」から覚醒して、そろそろ新章に突入しましょう。