「無になる」とは何か?

「人」は死んだら「無になる」と考える人は多いのではないでしょうか?
特に、「科学万能主義」という宗教を信じている日本人には。
 
だけど、「無」がどういう状態なのか
ちゃんとわかっている人の数は、それこそ「無」に等しいと思う次第です。
 
そもそも物質が「無になる」ことはありません。
人が死んで火葬になっても、私達の体は
空気中に二酸化炭素として放出されたり、
骨や灰となるだけであって、「無になる」ことはないのです。
 
「質量保存の法則」や「エネルギー保存の法則」がある限り、
「無になる」ということはない。
例え、「物質」と「反物質」がぶつかって物質が「対消滅」したとしても、
そこにはその消えた「質量」と相応の「エネルギー」が残るだけなのです。
 
 e=mc²
 
ですから、科学を万能と考える人々は、
「人」が死んだら「無」になるなんて言っちゃいけないんです。
 
いやいや、死んだら「俺」という存在は「無になる」だろ?って思いますか?
 
確かに「俺」という存在が「無になる」という解釈はよくわかります。
しかし、これを肯定するとなると、「俺」は「物質」でないということになるのです。
 
じゃあ、「俺って何?」って話になると思いますが、
私は、「物質」ではなくて、
「情報」「観念」「イデア」「目的」「意味」といったグループに属するものだと思っています。
(「イデア」については、過去ブログ「イデアの世界に連れてって」をどうぞ)
 
「情報」なら、「無になる」ことはあるのですよ。
例えば、「い」という文字を左右に切り離してしまったら、
この「い」という文字は「世界」から消滅します。
つまり「無になる」のです。
同様に、プログラム言語で何か便利なソフトを作っても、
そのプログラムを保存した磁気媒体に強力な磁力を当てたら、
そのソフトはもう動作しなくなり、そのソフトは「世界」から失われます。
 
つまり、こう考えることができるのです。
「い」という文字や、何かを処理するためのプログラムには、
「意味」があり、「目的」があります。
そう、全ての「情報」や「観念」には、「意味」と「目的」があるのです。
そして逆に、「意味」と「目的」がなければ、それは「情報」や「観念」にはなり得ない。
例えば「مُدَرِّسٌ」という言葉はアラビア語として存在しますが、
その「意味」を読み取れない私達日本人からしたら、
この言葉は「情報」ですらないのです。
この模様には、全く「意味」が存在しません。
 
そう考えると、
「情報」や「観念」というグループの中でも最も高次な存在である「俺」や「私」にも、
必ず「意味」や「目的」が備わっているはずなのです。
 
あなたは、自身の「命」「人生」に「意味」や「目的」を感じていますか?
もし「生きる」ことの「意味」や「目的」を見失っているならば、
私達の「生きる」モチベーションが湧き上がることもなく、
少しの「理不尽」であっても自ら乗り越えることは困難となるでしょう。
 
「意味」や「目的」があるからこそ、私達は存在し得ます。
どんなに「理不尽」が押し寄せてこようとも、
「意味」や「目的」をしっかりと持ち続ければ、
私達は私達として正しく存在しう得るのです。
 
単に「生きる」ということが、「目的」にはなることはありません。
「存在」するために「存在」する「情報」などあり得ないからです。
「情報」には必ず「役割」があります。
 
 「何に成るか」「何を成すか」
 
それから、「お金」や「名声」のような下らないモノのために、
自らの「意味」と「目的」を穢さないで下さい。
「情報」や「観念」というものは、
モノのためにあるのではなく、我々「生命」や「心」のためにあるのです。
 
 「私は人生で何に成るか」「私は人生で何を成すか」
 
生きる「意味」や「本質」を見極め、真の「目的」のために生きましょう。
 
あなたの「人生」に、「意味」が見えますか?
小事に囚われすぎて、
「人生」が「مُدَرِّسٌ」というアラビア語みたいに「意味不明」なことになりませんように。