「自信」に関する再「考察」

私は先日ある人から、とても大切なことを教えて頂きました。
 
それは、私に足りないもの。
 
前にも描きましたが、私はADDという発達障害を持って生まれました。
ADDの私は、とても不器用です。
イデアや思考は豊富に湧き出ますが、
それらを整理統合する力が乏しくとっちらかってしまい、
オンタイムでの会話や行動ができません。
しかし文章はじっくりと考えながら描けるので、
私の得意とするところです。
 
いわゆるコミュ障というヤツですが、
そのようなハンデを持って生きている場合、
社会性を最重視するこの世界では真っ直ぐ生きていけません。
何かしらの防御策を持つようになる訳です。
 
私が編み出した防御策は、
自分のモノサシを確立し他者のモノサシを見ないようにすること。
 
社会的に弱い立場の人間が自分だけのモノサシをつくろうとすると、
ルサンチマン(強者への怨嗟)から、
一見美しいモノサシができあがります。
 
しかし他者の視点を交えないモノサシは、
実社会においては歪で使い物にならないのです。
 
その結果、自分で自分のことを考える時は「自信」に満ちているのに、
他者と接するときには、及び腰になってしまいます。
確かに自分で自分を信じているから「不安」や「悩み」には襲われないものの、
社会においては他者に評価される己の磨き方をしていないので、
空回りをしてしまうでしょう。
 
陶芸家のように、山に籠もって一人で生きる場合には、
自分のモノサシだけでいいでしょうが、
社会で人々の中で助けられながら生きる以上は、
他者のモノサシも最終的に受け入れないと、
本当の「自信」はつかないと思います。
 
生きる上で、「自信」は本当に大切なものです。
「自信」がなければ、自分で自分の「人生」を歩いている実感が湧かないと思います。
 
では「自信」を手に入れるステップとは、どのようなものか?
 
私は、二つの道があると思います。
一つは、自分のモノサシを手に入れてから他者のモノサシを入手する道。
もう一つは、他者のモノサシを使いこなしてから、自分のモノサシを持つ道。
 
私は前者の道を行こうと思います。
社会に適応する能力が高い人たちは、後者の道を行くでしょう。
 
自分のモノサシを持たずに他者のモノサシに踊らされるのも、
それはそれで大きな問題を抱えます。
 
例えば、偏差値が低いという理由で、
自分を価値のない人間と思いこんでしまう学生たち。
就職活動の面接で落ちまくって、自殺する就活生たち。
社会から人がモノとして様々に測定されるこのご時世では、
自分のモノサシを持つことは、生きる上で必須だと言えるでしょう。
 
しかしまあ、世界はバランスや陰陽で成り立っています。
自分のモノサシ、他者のモノサシ、両方持ってようやく
本当の人との「つながり」が持てるのかなと想う次第です。