私を操る方法

たまに本屋さんやコンビニで、
「これであなたも、人を操れる!」とか「人をコントロールする黒い心理学」のような本が
売られていませんか?
本の外見は、いかにもアンダーグラウンドな雰囲気です。
黒い表紙に白の文字とかの見た目で、
他の書籍に比べて目立ちます。
定期的にこのジャンルの本が本屋の棚に並ぶので、
ある一定の需要があるようです。
 
私は、他者をコントロールするよりも自分をコントロールしたいと思っています。
だって自分をコントロールできれば、どんなことだって実現可能でしょう?
 
他者をコントロールする努力を積むより、
自分をコントロールする方が「ローリスク・ハイリターン」だと考えます。
仮に他者をコントロールすることが可能だとして、
それを実現できたとしても虚無感だけが募りそうです。
他者をコントロールしたい人に、本当の友達や恋愛やつながりを持てるとは思えません。
例えば、気に入らない人は誰でも粛正できる北の将軍様を見て、
「ああ、幸せそうだな」と思えるでしょうか?
 
まあでも、世の中にはいますね。
自分を頑なに変えず、他者を変えようとする人が。
 
その人達は、いつも「怒り」や「悲しみ」に満ちていて、
他者が自分の思い通りになったときにしか「喜び」や「悲しみ」を感じない。
結局は、他者をコントロールしようとすればするほど、
自分の「感情」や「幸せ」を、他者に委ねてしまっているのです。
 
まずは他者よりも自分に目を向けましょう。
それが、「幸せ」への第一歩だと思う次第です。
 
しかしもし実際に、他者を自在にコントロールできる方法があるのなら、
そう言った他者からの「悪意」ある試みから、
自分を防御する方法を模索する必要もあるかもしれませんね。
 
と言う訳で、まずは他者より自分です。
他者が自分を操る方法には、どんな方法があるか考察してみました。
 
2つ、思いついた次第です。
(1)「これ、こっちでやっておきましょうか?」という風に、
  私がやるはずの分を他の人が肩代わりしようとすると、
  私は「大丈夫!私の方でやります。どうもありがとう」と
  それを第一優先で遂行しようとします。
  私の能力不足でやりきれていないことを、
  仕方なく他の人がやろうとしてくれる時に、
  私は恐縮で心がキュッとします。
  私の中に、他の人に高く評価されたいコンプレックスがあるのでしょう。
  私は他の人に低く評価されることに、恐怖を感じる部分があります。
(2)シンプルに「困っているから、助けて!」と頼む。
  まあ、これに対して断るのは、「人としてどうか」という私のポリシーもあります。
  「人を助けるのは美しいこと」なのだと、自分の美意識は言っているようです。
  しかし駅前での怪しい募金活動のように、
  そういう「善意」を利用しようとする人達もいます。
  「助ける」のと「操られる」のは、全くの別物です。
  誰かを助けている時は、自分に以下のことを問いかける必要があると思います。
  はたして自分の「意思」と「覚悟」で助けているのか?
  「意思」も「覚悟」もないようなら、それは「操られている」のかもしれません。
 
私を操る「ツボ」は、他にもきっとあると思う次第です。
それを「考察」することは、
自分を知ることや自分で自分をコントロールする上でも非常に有効なことだと考えます。
また、その「ツボ」は、
いつも自分を「不幸」にしている「トリガー(引き金)」にもなっているはずです。
 
「不幸」とは、2つのことで発生します。
1つは、他者などの外部が、自分の意に則さない「言動」を採ること。
もう1つは、他者などの外部から、自分の意に則さない「言動」を強制されること。
 
前者は、他人を操ることから自分を操ることにマインドシフトすることで、
後者は、自分が他者から操られるパターンを理解することで、
「不幸」の発生を回避することができそうです。
 
まずは、他者を自分の思うように操ろうとする気持ちを排除することから。
確かに自分を操ることは、非常に大変なことです。
しかし他者を操ることに「心」を消耗させるよりは、
よっぽど根源的で生産的で楽しい「取り組み」だと、私は考えます。