「科学」は「争い」をなくす

「科学」は、人類の叡智の結晶の中で、最も偉大なものです。
 
「科学」は、人類から「争い」をなくしてくれます。
 
「えっ!」と思われるかもしれませんが、
ちょっと話を聴いていって下さい。
 
「科学」の「本質」は、「科学的手法」です。
ウィキペディアによりますと、

科学的手法とは、ある事物や現象を説明するにあたり、
考えられる様々な仮説から、再現性を持つ実験や観測を行い、
その結果に矛盾しない説明を選びだすプロセスの事である。
科学的説明には、用いた実験方法や測定方法が公開され、
三者に検証される事が重要である。
また、実験や測定には、ある程度の精度がある事が望ましいとされる。

と、説明されています。
 
すなわち、
「科学的手法」という審査を通った「論」に対して付与される
「この論は正しいですよ」という「お墨付き」のラベルが「科学」なのです。
 
以前過去ブログで、私は「正しい」は危険物だと述べました。
自分が「正しい」と主張することは、相手を「誤っている」と批判することにつながり、
そこに感情的緊張が生じてしまう訳です。
 
歴史を紐解くと、この「正しい」によって引き起こされた争いは腐るほどあります。
「俺らは正しい神の加護を受けている」という十字軍の遠征もそうですし、
「自分達は神に護られた正しい民族なんだ」と
アジアに侵攻していった日本軍だってそうです。
 
ISISも自分達が「正しい」と思っているでしょうし、
アメリカが中東のオイルを狙うのも、自分達は「正しい」国家だから、
そのくらいの権利が自分達にはあると、本気で思っているんじゃないでしょうかねぇ。
 
韓国や中国が、過去の歴史について自分達が「正しい」「正しい」と繰り返しすぎたから、
日本にはその反動で「嫌悪感」が生まれたと考えることもできます。
逆に日本は「正しい」「正しい」と連呼しないことが肝要だと思う次第です。
その点、安倍首相はうまくやっていると思いますが。
 
「正しい」「正しい」の連呼は、第三者からも引かれるのが落ちです。
想像してみて下さい。
誰かと喧嘩している人が、周りの人に自分の正しさを必死にアピールしている姿を。
その人が「正しい」かどうかに関わらず、
なんとなく「この人は、よっぽど自分が可愛いんだなぁ」と引いてしまいませんか?
 
国家においても同様だと、私は思うのです。
必死に「正しい」「正しい」を連呼していると、
周囲の国家はその過剰な自己愛に引きます。
というか、「優越」を過剰なほどに求めるその国家に対して警戒していくでしょう。
 
おっと、また話が脱線してしまいました・・・
つまりは、「正しい」は争いを生む種だということです。
 
しかし「科学」は、「正しい」から争いを生む要素を排除してくれました。
すなわち、誰にも覆せない絶対的な「正しい」を提供してくれたのです。
 
「科学」は、人類がようやく見つけた「進化」の希望だと言えます。
この絶対的な「正しい」がなければ、論を積み上げることができませんでした。
 
想像してみて下さい。
大きなブロックを何段も積み重ねて上に行こうとしている人を。
もし一番下のブロックが崩れてしまったら、
その上のブロックごと、その人は落ちてしまいます。
そんな危険があったら、おちおちブロックを積み上げて上を目指すこともできない訳です。
 
しかし、「このブロックは絶対に崩れません!」という「科学」ラベルのブロックが
世の中に出回ると状況は一変します。
 
上を目指す人は、皆安心してブロックをめちゃくちゃ積み上げて、天を目指しているのです。
そうしてようやく人類は、ビッグバンや素粒子や生命や、
そういった「世界」の根本にまで首を突っ込めるようになりました。
 
このように、「科学」は、人類にとってとても「神聖」なものです。
STAP細胞の小保方氏が叩かれたのは、単に彼女が嘘をついたからではありません。
「神聖」な「科学」の世界に、「崩れるブロック」を騙して導入しようとしたから、
叩かれている訳です。
 
ですので、私はこのブログで論を展開するに当たり、
当然のごとく「科学」を第一に「正しい」ものとして位置づけます。
また、「科学」ブランドの「崩れないブロック」を
積極的に使っていきたいと想っている次第です。
それが、人様に自論を展開する際の礼儀だと考えています。
 
もし私の論で科学的に誤っている部分があったら、
指摘のコメントを頂けると嬉しいです。
大変ありがたい「気づき」になりますし、喜んで記事を訂正いたします。
 
ただし、
ここからお話しする内容は、私独自の論の特徴です。
 
世の中には「科学」で説明しきれていないことが、まだ山ほどあります。
その「科学」で説明しきれていない部分については、
私は大胆な仮説を打ち出そうと考えている次第です。
社会の「外部情報・価値観(Meme)」に流されずに、
どれだけ「心・自我(Self)」を打ち出していけるか?
 
それがこの「優しい唄歌い」の魅力だと、作者の私は考えている次第です。