1週間の休暇を頂きました

精神的に不安定になりまして、
職場から1週間の休暇を頂きました。
昨日からです。
 
職場の様々な方から、心配や励ましの言葉を頂きました。
 
私がやってしまったことは、
精神的に不安定な言動をしてしまい、
職場の方々に迷惑をかけてしまったことです。
 
「ああ、またやってしまった」と思います。
こんなに心配して頂いている方々に対して、
本当に申し訳ないという気持ちで一杯です。
 
この1週間の過ごし方についても、
いろいろと親身なアドバイスを頂きました。
 
必ずこの1週間最善のことをして休息し、考察し、
「ああ、休んでもらってよかった」と皆さんに安心してもらえるような顔で、
1週間後に出社したいです。
 
いつもの「やりたいやりたい」詐欺にならないよう、
肝に銘じます。
 
この1週間は、私にとって運命の分岐点です。
 
どう生きたいのか?
どうなりたいのか?
何が、自分にとっての「幸せ」なのか?
 
同僚に勧めて頂いた山登りなどもしながら、自分と対話したいと思います。
 
今回、職場に迷惑をかけてしまったのは、
私が中学時代に使いっ走りになっていたことや、
最初に入った会社でイジメにあったことのトラウマを、
関係のない現在の職場環境に投影してしまったことが、実体です。
 
そして、もう一つ大きな判断をしなければならないことがあります。
 
人を助けることが、私の生まれた意味。
私は、ずっとそう考えてきました。
 
他に、自分の生まれた意味が見つからなかったからです。
周囲とは馴染めず孤立し、使いっ走りにされ、
自分の身から出た錆で最初の職場でイジメにあい、
自分は社会には必要のない存在だと、ずっと感じてきました。
 
コミュニケーションも下手で、何もやっても不得手だと思い込んでいる自分。
 
自分に価値は、ない。
 
だから、自分の生きる資源は、もっと価値のある人に使って欲しい。
 
自分が与えることのできる資源なんて、ちっぽけなものですが、
人を助けるという意味合いにおいては、
ちっぽけな資源でも、テコの原理のように大変な価値を生み出すことがあります。
 
例えて言うなら、
大金持ちに与える10万円と、日々の生活に困っている人に与える10万円とでは、
全く生み出す価値が違います。
 
大金持ちに10万円を献上したって、その人に与える価値の増加は焼け石に水でしょう。
一方で、日々の生活に困っている人に与える10万円の価値のなんて大きいことか。
 
例えば、日々の暮らしに困窮し、
子どもを旅行にも連れて行けない家庭があったとします。
もし、その家庭がその10万円で一生に一度かもしれない家族旅行に行けて、
思い出をつくることができたとしたら、
私は、そのことに心から喜ぶだろうと想う次第です。
きっと絶対、涙を流します。
 
しかし、自分の資源を限界まで無尽蔵に与えることには、
一つ自分の中のスイッチをオフにする必要があるでしょう。
 
社会一般に考えられている、
自分個人の「幸せ」というスイッチをオフにする必要があります。
 
ただ、この「幸せ」というのは、
私がこのブログでずっとテーマにしている通り、
その正体は自分にとっては全くの不明です。
 
今回、そこもじっくり考えたいと想います。
 
私は、自分を無価値と考えている影響から、
自分みたいな無価値な人間を「幸せ」にすることに罪悪感を覚えるのです。
 
しかし、それはものすごい冒涜にも思えます。
 
自分を心配してくれている方々の存在。
そういう人達の想いを踏みにじっているような気がします。
 
第一に、
「自分が自分を無価値に考えている、その姿勢もどうよ?
 こんだけ一生懸命生きている自分に失礼じゃないの?」
という想いも、本当なら抱かないといけないと思うのです。
 
「人生の意味」
「幸せの意味」
 
今まで、ずっと考えてきたことの集大成。
この1週間で、結論を出します。
 
そしてその結論によって、私のその後の運命も大きく変わるでしょう。