「真剣」に「生きる」

昨日、家から歩いて、山を登って、海に着きました。
 
ずっと、実行してみたいと思っていたんです。
「この道だったら、海に辿りつけるはず」と、
家の壁に貼り付けている地図を見て、考えていました。
 
3時間超で海に到着。
 
海に辿りついたときに、とても達成感がありました。
気持ちが良かったです。
 
自分の足で、自分の意志で、歩くこと。
 
想えば、普段そんな「生き方」をしていないなぁと感じました。
 
日々自分の足で歩いては、いるのです。
でも「自分の意志か?」と言うと、そうではない。
 
「そうしなきゃいけない」から歩いていたり、
そして歩くのに疲れて、そんなに興味のないことに道草したり。
自分の「歩き方」がおかしいと、嘆いてみたり。
 
昨日の山は、前日の雨でぬかるんでいました。
転ばないように一生懸命に、頭を空っぽにして、ひたすら進んだのです。
 
「歩き方」なんて、関係ない。
大事なのは、辿りつきたい方向に足を進めているかどうか。
 
お休みに入る前に、「真剣に生きていない」と職場の上司から、言葉を頂きました。
本当にそうだなと、その時感じたのです。
 
自分の「幸せ」や、自分がどうなりたいか、ということを度外視して、
私は、これまで当てもなく歩いてきたような気がします。
これだけこのブログで、「幸せ」や「人生」の意味を考えてきたにも関わらず。
 
実は正直、途中でにっちもさっちも行かなくなったら、
そこでのたれ死んでもいいとさえ漠然と考えていたのです。
 
そんな自分が、職場や他の人の役に立つことができるだろうか?と今考えています。
人は、社会的な生き方をする宿命を持った存在です。
自分を幸せにできない人間は、まず周りにネガティブな影響を及ぼしてしまいます。
それは、自分がネガティブだからです。
そうして、自分が資源を提供して支える存在にも、マイナスの影響を与えます。
例えば、親が日々の仕事がイヤだイヤだと嘆いて暮らしていては、
子どもにも悪い影響が行ってしまう訳です。
  
職場の上司は、ご自身がどれだけ真剣に生きてきたかを、教えて下さいました。
真剣に、自分の行く末を考え、自分を「幸せ」にするために、自立して生きてきたこと。
 
私は、その点全くダメです。
自分が「幸せ」になることなんて、
「世界」から許されていないように感じてしまっています。
自分が「幸せ」になるヴィジョンがないのです。
 
お見苦しいかもしれませんが、なぜそう思うかを以下に書き出します。
「コミュニケーション下手で、友達も作れず、恋人も作れず、ずっと孤立して生きてきた」
「それは、自分がダメだからだ」「ダメな人間だから、誰も仲間にいれてくれないんだ」
「仕事もできない。自分はいるだけで迷惑な存在なんだ。」
 
「何をウジウジと」と思う人もいるかもしれませんが、
それが私の半生を通じて体験したリアルです。
 
 
昨日、山を越えて、海に辿りつきました。
海が見えてきたとき、純粋に嬉しかったです。
「やった!」という素直な喜び。
 
その時、自分がどういう存在かなんて、頭にはありません。
頭にあったのは、ぬかるんだ道を必死に歩いてきた道程と、目の前の達成した風景です。
 
自分がどうしたいのか?
 
もしかしたら、「人生」に必要なのは、それだけなのかもしれません。
そこに行きたいから、歩く。
辿りついたら、その景色に感動する。
 
「行きたいところ」に目を向けることが、「真剣」に「生きる」ということ。
 
「行きたいところ」に目を向けられない人が、
他の人を助けようとして、手を引っ張って歩き出しても、
山道で共に遭難してしまいそうです。
 
人生の「意味」が、乗り越えて辿りついたときの素晴らしい風景を見ることだとしたら、
助けたい人に、その風景の素晴らしさを語れる人でないと、
その人を本当の意味で、助けられないのかもしれません。