「真面目」の「価値」

「真面目」は、「幸せ」の邪魔になるのでしょうか?
 
以前のブログにも描きましたが、
中学生の私は、他のクラスメートが「おしゃべり」で教室の掃除をさぼるなか、
一人で床の雑巾がけをしていました。
「真面目」に掃除をしないクラスメートに、「心」の中でムカつきながら。
 
社会人になっても、そういったことは時々起こりました。
同じ職場の人が「おしゃべり」をしていて、私の仕事の負担が増えてしまうということ。
 
そして、その職場の人は先に帰り、私は職場に最後まで残って仕事をします。
 
「真面目」の価値が、いまいち不明です。
 
皆、「真面目」は「損」だと、「心」の中で密かに思っていませんか?
 
私は、実体として「損」であることは確かだなと思うのです。
 
ただ、世の中の「真面目」に対する評価は、2つにわかれると考えます。
 
それは、「真面目」な人をバカにする人と、「真面目」に敬意を抱く人とに。
 
「真面目」をバカにする人なんているのか?と、思いますか?
例えば、中学の時のクラスメートは、
私が一人で雑巾がけをするのを見ても、誰も手伝おうとはしませんでした。
クラスメートは、一人で雑巾がけをする私を多少なりともバカにしていたから、
私の存在を無視して、「おしゃべり」を楽しめたのだと思います。
 
「真面目」をバカにする人がいるのは事実です。
 
そして社会人になっても、社会の「効率」信仰が、「真面目」への偏見を増長させます。
純粋に自分の守備範囲の仕事を「効率」化させるのは、もちろんいいことです。
しかし、自分の仕事は最低限で終わらせて、
自分の仕事かどうか微妙な仕事はやらずに他の人に任せようとするスタンスは、
私から言わせると褒められたものではありません。
でもそういう人に限って、コミュニケーション能力も高く、評価はよいのです。
なにしろ自分の守備範囲の仕事だけは、きっちりとやっていますから。
それなのに、誰よりも早く帰宅している。
「あいつは、仕事ができるヤツだ。」という評価になってもおかしくありません。
 
しかし仕事には、誰の守備範囲でもない隙間の仕事というものが必ず存在する訳です。
それを誰かがやらなければいけません。
 
そういう隙間の仕事と言うのは、得てして誰にも気づかれないような地味な仕事です。
 
それを誰かがやらなければ、会社は回らない。
 
「真面目」な人は、そういう仕事が目につき、気になって仕方がありません。
「ああこれをやらないと、誰かが困る。」
 
「真面目」な人は、見捨てられないのです。
「それは自分には関係ないよ」と、できません。
 
「真面目」な人は、自己への「評価」よりも、全体が回ることに気を遣う人です。
そして「真面目」な人は、「損」であることも甘んじて受け入れて、
「誰かがやらなければいけない仕事」を見捨てることができずに、それを遂行します。
 
ああ、なんかこうやって描いていたら、
「真面目」の「価値」を自分の中で再評価できたようです。
 
「真面目」な人は、周りに無視されがちな地味な仕事にも「想い」を向けられる人。
簡単に「見捨てる」ことができない人。
 
「真面目」な人は、地味で損な役回りですが、やっぱり彼らは立派だと想います。
自画自賛で、すみません。
 
今日も、「真面目」に仕事に行ってきます。