「読書」したら「表現」する

「読書」と「表現」。
これらは私の中で、同じ目的を持つ行為です。
 
2つとも自分の「生きる」のために。
 
そこに何か「本質」や「気づき」がないか?
私はどんなジャンルの本を読んでいても、無意識にそこを探ります。
 
「なるほど、生きるってそういうことか」
「やっぱり、生きる本質って、こういうことだよな」
 
私は、なぜ自分がこの世界で生きているのか、よくわかっていません。
気づいたら、この世界にいたので。
そして、生きなきゃいけないらしいので。
 
きっと、何か隠された理由があるのでしょう。
私は、それを知りたい。
それを知れば、本当の意味で生きることができるはず。
 
自分の遺伝子を後世に残すことが、目的とも思えません。
それだけの目的だったら、バクテリアで十分なのです。
しかし私達は高度で複雑なこの世界で、「喜怒哀楽」を感じて生きています。
きっと隠された本当の生きる理由があるはずです。
 
生きる理由を探るため、私は「読書」の他に「表現」もします。
その「表現」の場が、このブログです。
 
「表現」することで、「生きる」本当の理由を探ります。
「読書」や「体験」から得た材料を基に、自分の心にフィットする答えを探すのです。
「読書」で得られた「知識」は、「表現」で消化(昇華)されて「知恵」となります。
 
自分の「心」にフィットしなければ、どんな「知識」も無用の長物です。
例えば、普段フォークやスプーンで食事をしている人に、箸を提示したとします。
箸がどんなに便利か、その人に説明して、
「ほ〜、そんなに便利な道具なのか」とその人が箸の利便性を頭で理解したとしても、
じゃあ実際、明日から箸を使って食事をしようとするかは、別問題なのです。
 
箸が便利なことを知っているだけでは、それは「知識」でしかありません。
箸を実際に使い、その利便性を享受できるようになって初めて、
それは「知恵」になるのです。
 
「表現」することは、
自分の「心」がその「知識」を気に入るかどうかの「試用」の役割を果たします。
実際に箸を使ってみて、「お!いいじゃん」って感じるのか、
「ああ、自分には使いにくいや・・・」って感じるのか。
 
「表現」することは、自分の「無意識」への問いかけなのです。
 
「無意識」は、結構侮れません。
「自分」が知らないことも、結構知っていたりするのです。
 
「表現」を続けていくと、「無意識」がいろいろ教えてくれることに気づきます。
時々、ハッとするような「気づき」を与えてくれるのです。
 
そういった経験を通じて、私はユング集合的無意識を肯定します。
全ての生命が「心」の奥底でつながり共有する「知恵」の海があったとしても、
あながち、おかしな話ではないと思うのです。
集合的無意識ウィキペディアは、こちら
 
そういった訳で、私は「読書」や「表現」を、生きる「知恵」を得るために行っています。
その目的からしたら、「読書」と「表現」は必ずセットです。
洋服を買って、家に飾るだけの人はいません。
買った洋服は、ちゃんと日常で着てこそ意味があるのです。
そして実用とするためには、洋服のデザインの好き嫌いだけでなく、
「試着」が必要になってきます。
 
私の目的からしたら、「読書」のみ数多く行う行為は、単なる衝動買いです。
ちゃんと「試着」(=「表現」)して、自分にフィットするか確かめる必要があります。
 
「試着」を繰り返したら、自分の見えざる「好み」も段々わかってきて、
何百枚もの洋服を買う必要もなくなってくるはずです。
そもそも、人間は何百枚もの洋服を全て着こなすことはできません。
 
「知恵」を得るために大切なことは、
たくさん「買う」ことでなく、たくさん「試着」することなのです。