累計100万アクセスを超えました!

「継続」することって、
「生きる」上で重要なことだと感じます。
 
「継続」は、「情熱」の証です。
 
ただただ流される「人生」に逆らって、
竿を立て続けること。
これが、私の中の「継続」のイメージです。
 
川をさかのぼるサケを想像してみて下さい。
海で大きく育った彼らは、
生まれ故郷の川を、食事もせずに、ひたすら上っていきます。
体は、川底の石とぶつかりまくって、傷だらけです。
 
自分の生まれ育った川で、安全に卵をかえすために。
子どもたちに、未来をつなぐために。
サケは、時には滝をさかのぼる程の情熱で、ひたすら上流をめざします。
 
そして目的地に着くと、彼らはペアをつくり、
最後の力を振り絞って産卵と放精を行うのです。
産卵後には、彼らは力つきて死んでしまいます。
 
そんな親サケの決死の闘いが終わり、
産卵から約2か月後、子どもたちが卵から孵化するのです。
そして冬から春にかけて、彼らは育ちながら川を下り海に出ます。
 
もちろんこのサケの行動は、本能によるものでしょう。
しかし、空腹や痛みの感覚は彼らも感じていると思います。
(魚に痛覚があることは、英魚類学者の最近の研究でわかってきています。
 余談ですが、無駄に魚に痛みを与える魚の活き作りとか、
 私は今後は頼まないようにしようと考えています。)
 
そんな不快で辛い感覚と、「上流へ!」という衝動の、矛盾した葛藤の中で、
私にはこの頃のサケには、なんらかの「想い」が生じていると考える次第です。
私は、いつかサケの遡上を見に行きたいと願っています。
「生きる」ということに対して、
何かを感じ取ることができるかもしれないと考えているからです。
 
う・・・なんだか本日の累計100万アクセスというお題から、
だいぶ離れてしまったように感じます。
 
ただ想うのは、
自然界のエントロピーの法則に逆らって成し遂げられる生命の様々な営みに、
「生きる」ということの「本質」が宿っているんじゃないかということです。
 
私は、ブログを長い期間描かずにいると、「生きている」感覚が薄くなります。
自分の「人生」なのに、それをしっかりグリップしている感覚がなくなるのです。
 
こうやって不出来ながらも、自分の文章を描き上げたとき、
私の「心」の体温は、上昇します。
「ああ、私はちゃんと私の人生を生きているんだ」と感じることができるのです。
 
「情熱」や「想い」。
これらは、現在の「世界」に満ちていますか?
 
満ちていない、でしょう。
「世界」は涼しい、あるいは寒いところだと感じます。
 
「心」の中で、自ら火を燃やしていかなければ、
「心」は低体温症になってしまい、
「生きている」という感覚が薄くなってしまうように思うのです。
 
ただ「心」の体温を上昇させる方法は、
もう一つあると考えています。
それが、「心」と「心」の交流。
誰かの「心」と触れ合ったときにも、「心」の体温は上がると感じます。
 
まあ方法はどうであれ、「心」の体温が低くならないように心がけることが、
「幸せ」のための基礎体力になると、私は考える次第です。
 
冷えて感覚のない状態では、「幸せ」を感じることができません。