「人を相手にせず、天を相手にせよ」

西郷隆盛さんの言葉です。
西郷隆盛さんは、言わずと知れた明治維新の立役者。
維新の三傑」と称されています。
 
さて今日は、西郷さんの名言「人を相手にせず、天を相手にせよ」を
私なりに解釈したいと思います。
「人を相手にせず」とは、人の気まぐれで理不尽な反応なんか気にせず、
いついかなる時にも変わることのない天の理(ことわり)を基準に判断・行動せよ、
ということなのかなと思っています。
 
実際、人の反応を自身の評価のモノサシにすると、とても疲れますよね。
どんなに努力したって嫌われる人には嫌われる。
それもそのはず、
人の価値観なんて人によってバラバラだし、いい加減だし、利己的だし。
「真」でもなれければ、「善」でもなければ、「美」でもない。
はっきり言って、
他人の評価のような不完全なものを基準にして生きる人生は、
嵐の海を帆船で航海するようなものです。
右や左に翻弄され、精神が疲弊してボロボロになります。
自分を評価するモノサシは、他人に握らせてはいけないのです。
 
そうではなくて、
誰にもいじれない絶対的なモノサシを自分自身できちんと創って
それを基準にして生きれば、人生はぐっと楽になると思います。
「天を相手にせよ」と西郷さんが言っているように、
自分なりの「真」「善」と「美」を満たした高潔なモノサシを
よく吟味して創るべきです。
そうすれば、他人との摩擦も起こりにくくなりますし、
自分と同じモノサシを持つ人と出会う確率も高くなりますので、
質の高い人生を送ることが可能となります。
 
しかし私たちの心には、どうしても相対的な考え方をしてしまう癖があります。
ですので、絶対的なモノサシを自分の心に持ち込むためには、
そのモノサシへの相当な信念も持ち合わせる必要があります。
そうでないと、いつか自分のモノサシは他者の価値観に浸食されてしまうでしょう。
 
では、どの程度の信念を持てばよいのでしょうか。
西郷さんは、自身の信念に命をかけました。
命をかけたが故に、明治維新を成功させることができたし、
無謀とも思われる西南戦争で命を散らしたのです。
 
私も、一回限りの人生であることですし、
自分の命よりも価値のあるスーパーモノサシを一本持ちたいなと思います。
これから先、このモノサシが原因となって例え命が危機に直面したとしても、
心中をしてもよいと思えるくらいの一心同体のモノサシです。
 
具体的には、このモノサシには3種類の目盛が用意されているイメージです。
すなわち「真」「善」「美」。
その物事は、より「真」であるか?
その物事は、より「善」であるか?
その物事は、より「美」であるか?
 
私の場合、「真」「善」はともかく、「美」は今まで全くノーケアの領域でした。
「美」も自身の人生の最大価値の一つとするのであれば、
これからは「美しい人」を目指さないといけません。
外見と内面の両方の「美」を、私の人生を使って追求していくつもりです。
 
周囲の人間の目を気にしてしまい、
複数のモノサシをその場その場で慌てて用意して右往左往するよりは、
「天」に恥じないスーパーモノサシを1本創って磨き続けた方が、
断然、人生を強く優しく美しく生ききることができると思う訳です。