勝手ながら背負わせていただきます。

今日も「知覧特攻平和会館」の話をしたいと思います。
3日連続の話題ですが、それだけ私への影響が大きかったのです。
 
知覧特攻平和会館」へ行ってからいろいろ考えたのですが、
私は今生き方を変えようと思っています。
人生を謳歌しようとした矢先に戦争に巻き込まれ、
突如の死を選ばなければならなかった特攻隊員達。
 
私は、与えられた「時間」を無駄遣いせずに、
自身の「幸せ」の実現、更には日本の「幸せ」の実現に向けて、
彼らの分までしっかりと美しく生きたいと考えています。
 
一昨日と昨日のブログで言及しましたが、
特攻隊員の中に、22歳で亡くなられた上原良司さんという方がいらっしゃいます。
彼が出撃前夜書いた遺稿を読み、私は非常に親近感を覚えました。
 
遺稿の中で、彼は自身を「自由主義者」と称しています。
そして、「自由」の勝利を明白なものであるとし、
ファシズムのイタリアやナチズムのドイツが敗れたことを
真理の普遍さが証明されたとして、
祖国には都合が悪いかもしれないが、自分にとっては喜ばしい限りだとしています。
 
また、戦争等の闘争は全て、その根底を成すものは必ず思想であるとしています。
そして、人間の本性は「自由」であるとし、これを滅することは絶対にできない。
だから、「自由」を阻もうとする様々な思想と常に闘いながらも、
最後には「自由」という思想が必ず勝つとしています。
 
自由主義者」の彼は、軍隊に属すること、特攻を行うことを、
自分は機械の部品となったと表現しています。
そう。軍隊や戦争は、「自由」への侵略者なのです。
しかし、彼はその事実を受け入れ、特攻隊として出撃されました。
彼の操縦する飛行機は、1式戦闘機「隼」。
記録によると、沖縄周辺洋上で22歳の彼は亡くなられたようです。
彼は、「日本の自由独立の為、喜んで命を捧げます。」と書いています。
日本軍のためにではありません。未来の日本のために尊い命を捧げたのです。
出撃前夜に彼が書いた遺稿は、
あの板垣退助の「板垣死すとも自由は死なず」にも引けを取らない迫力を有しています。
 
また彼は、両親への遺書の中で、「永遠にさようならです」という言葉を残しています。
多くの隊員達が、
「九段で会いましょう」とか「大空から見守っています」という
優しい言葉を残しているのに対し、
「死」という概念に対しても、
徹底して自分の頭で考えて理解しようとする彼の姿勢が伺えます。
 
私は、彼の遺稿に、心の深いところで共鳴をいたしました。
そして、これからの人生、彼を背負って生きようと思ったのです。
 
彼が、果たせなかったたくさんのこと。
私に与えられた「時間」を大切に使って、果たしていきたいと考えます。
美しく「自由」に生き、自身の「幸せ」を掴み、そして日本の「幸せ」のために生きる。
日本を「自由」と「幸せ」に満ちあふれた「独立」した美しい国家とすることを目指して。
 
誠に勝手ながら、私は上原良司さんの送りたくても送れなかった人生を背負って、
家族ができたつもりで責任を持って、今後の人生を生きさせていただきます。