「幸せ」絶対音感

最近、生活リズムが乱れています。
一時期できていた、日課のブログ更新と皇居ランがうまくできない。
 
皇居ランやブログや勉強等「やると決めたこと」を、
きちっとできていた時は「幸せ」でした。
あの「自分の意思で生きている」という感じ。それに、充実感。
自己実現」の「幸せ」を初めて実感しました。
 
そして、今回私が感じた「自己実現」の「幸せ」は、
「相対的」なものではなく、「絶対的」のものでした。
先日のブログの「ウサギとカメ」の中の「カメ」の境地と言えます。
すなわち、他者が自分より速く走ろうが遅れていようが関係なく、
純粋に自身が前進していることに「幸せ」を感じているのです。
 
この「幸せ」の絶対音感は、今後の人生で強力な武器になると感じています。
 
ところで「三日坊主」というのは、
「幸せ」絶対音感を身につけていないと起きてしまう現象。
というのは、「やると決めたこと」をできなくなった時、
「相対的」にその事実を捉えて「不幸」を感じてしまい、
だんだんできていない事実を考えることすら嫌になってしまった結果、
「やると決めたこと」自体をなかったことにしてしまうのが、「三日坊主」だからです。
 
でも、よく考えると、「やると決めたこと」をできていた時は「プラス」の状態ですが、
「やると決めたこと」をできていない時は、別に「マイナス」の状態ではありません。
今までの日常に戻っただけの、単に「ゼロ」の状態なのです。
それどころか、「やると決めたこと」を心に持ち続けているだけでも、
今までの日常に比べたら、若干「プラス」の状態と言えます。

「幸せ」絶対音感をもっていない人は、比較しかできないので、
「やると決めたこと」がしばらくできなくなっただけで、嫌になってしまうのです。
 
上記のような考察を行い、
私は「三日坊主」からの脱出方法を、つかめたかもしれません。
すなわち、「プラス」部分を「絶対的」な感覚で保持できるように、
徹底的に噛み締めて味わうのです。
まず、「やると決めたこと」を達成できている時は、
徹底的に、それが「いかに幸せか」「どのように幸せか」考えます。
そして、日記やブログ、もしくは親しい人に、そのことをアウトプットする。
それができていることが、どれほど自分にとって「幸せ」なことなのか、
徹底的に「心」で理解する訳です。
 
そうすると、その「幸せ」の音程がわかってくる。「あ、この幸せは"シ"の音だ」と。
ここまで来れば、しめたもの。
その「幸せ」から離脱してしまったとしても、
その「幸せ」に復帰したいというモチベーションが長期的に残ります。
そして、その「幸せ」を知ってしまった自分が、
以前の「ゼロ」の状態よりも「プラス」であることに気付くのです。
 
一方、「相対的」にしか当時の「幸せ」を理解できていない場合は、
一度離脱したら、達成できていない今の不服な状況を「マイナス」評価してしまい、
せっかくのモチベーションが霧散してしまうのです。
 
このモチベーションが霧散することを「諦める」と言います。
 
今お話ししていることは、自身の時系列上の「相対性」のお話しですが、
これは、他者というライバルを比較対象にして努力している場合にも当てはまる訳です。
 
「幸せ」は「水もの」ではありません。
「ウサギとカメ」の「ウサギ」のように、
他者への「優越感」や「劣等感」という「相対的」なモチベーションは、
刹那的であり長続きしません。
そんな「相対的」なことに「幸せ」を見出していたら、
いい状態の時は強力な推進力を生むでしょうが、
奢ってしまって油断したり、劣勢になった時の「心」の復帰に相当の負荷を要するでしょう。
 
「才能」を多く持たない「カメ」のような人の方が、
本当の競争相手が自分であることを心得ています。
そして、「幸せ」をよく味わうこともできる。
つまり、「カメ」の人の方が「幸せ」絶対音感を獲得しやすい訳ですね。
 
「ウサギ」の挑発を気にせずに、いかに前を見て前進していけるか?
「カメ」の本領発揮は、この「マインド」にかかっています。
 
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