「カイジの鉄骨渡り」

カイジ」という漫画をご存じでしょうか?
先日映画化もされた、ギャンブルを題材に人生の本質を鋭くついた漫画です。
現在も連載中の漫画ですが、
私はこの中でも「賭博黙示録」という一番最初に描かれた全13巻のシリーズが
お気に入りです。
(「賭博黙示録カイジ」のウィキペディアこちら
 
この漫画は、「世界」の「無慈悲」な「正体」を見事なまでに描ききっています。
私は、この「賭博目次録カイジ」を中学校の教科書にしてもいいのでは、
とさえ思っています。
「お金」のこと、「悪意」のこと、「欺瞞」のこと、「欲望」のこと、「裏切り」のこと。
そして、「他者や社会が、自分の価値をどう見ているか」。
 
ある意味、「道徳」の時間には誤魔化されていた「世界」の「正体」が
ここに描ききられています。
「道徳」の時間に、「世界」の「無慈悲」な側面をちゃんと教えてないから、
社会に出たばかりの学生はキャッチセールスの被害にあったり、
消費者金融にはまって、慢性的に苦痛な「人生」を送らなければならなかったりするのです。
 
この作品は、「世界」の「無慈悲さ」を完膚無きまでに提示した上で、
そんな世界においても、「人間」ができることを描いています。
  
さて、この「賭博黙示録カイジ」の中でも特に私のお気に入りの箇所があります。
それは、鉄骨渡りのシーンです。
詳しくは、是非実際漫画を手にとって欲しいのですが、
高層ビルと高層ビルとの間に渡された「平均台」のような2本の細い鉄骨。
「見事反対側まで渡りきれたら1,000万円!」
借金地獄から救われたい人々が、富豪達の余興のために、
命を賭して細い鉄骨の上を渡っていきます。
真夜中の綱渡り。落ちたら、即死亡。
誰もが「命」を守られるという表向きの「世界」とは別の「世界」のもう一つの「顔」。
他者や社会から見た時の、自分の「価値」の軽さ。「命」の軽さ。
「弱肉強食」の原理。
 
鉄骨の上では、誰も助けてくれません。
「自分の力」のみで進んでいくのです。
鉄骨を踏み外したら「死」。
誰かを助ける余裕などなく、ただただ自分の足下をみつめて、
恐怖に怯えながらも、恐怖を抑えて「一歩一歩」自分の意思で足を踏み出していく。
 
しかし、そんな中にあっても、挑戦者は声を出して励まし合って進んでいきます。
「死」と隣り合わせの「究極の心細さ」。
誰も助けてくれない「究極の孤独」。
このような状況の中、主人公のカイジは、「他者」の存在の有り難さを知るのです。
 
隣の平均台から、自分に声を掛けてくれる後輩の声。
後輩が「そこにいる」とわかるだけで「心」に溢れる「温かな何か」。
そしてわかる。
誰の存在も感じないまま、
暗闇の中、「死」と隣り合わせの道を進むことの「真」の「恐ろしさ」「絶望」。
 
カイジは気づきます。
「人生」もこの「鉄骨渡り」と同じではないか?
人は人を「真」に理解することもできなければ、「真」に救うこともできない。
 
例えば、苦しんでいる誰かを「真」に救おうとするならば、
その人と「体」や「運命」や「状況」を交換するくらいのことをやらないと
不可能であることがわかりますか?
現実性はありませんが、「大金」を渡したら救えるのでは?と思う人もいるかもしれません。
しかし、その人の「心」が動かない限り、
その「人」は「真」に「幸せ」になることはできない。
「心」が元のままであれば、同じ「心」のクセで、同様の「不幸」を呼び寄せてしまいます。
例えば、高額の宝くじに当選したのに結局人生を踏み誤る人達の存在。
 
そして、人々は不安や恐怖に怯えながら、「鉄骨」を渡らされている。
基本、他者を助ける余裕などない訳です。
必死に「生活」を守るために生きている人達に、
「他者を助けないなんて薄情だ」と言えませんよね。
 
人は人を本当の意味で「救う」ことなどできない。、
これは、何回か「救おう」としたけれども、
「救う」ことができなかった私の経験からも事実だと思います。
ただただ、自分の精一杯を「与える」ことしかできないのです。
 
人は、自分の力で、自分の意思で、危険な鉄骨の上を一歩一歩進むしかありません。
しかし。しかしです。
他者を直に「救う」ことができなくても、他者に「何か」を「与える」ことはできます。
「与えられた」人にとって、「与えられた」モノも重要かもしれませんが、
本当に重要なのは、「与える」人から感じる「体温」「温かさ」なのです。
 
寒風吹きすさぶ、真夜中の高所の鉄骨渡り。
一歩一歩踏み出すのは、あくまで自分。
しかし、他者の「体温」「温かさ」を感じないまま進んでいけば、
いつか凍え、足を踏み出すのをやめ、恐怖に身動きがとれなくなります。
そして、いつしか諦め、自ら落ちていってしまうでしょう。
 
「救おう」としても、完全に「救う」ことなどできない。
これは、「与える人」にとって非常に苦しいことですが、
受け入れなければならない事実です。
それでも、もちろん「与える」ことに意味はあります。
 
この「カイジの鉄骨渡り」という思考実験で気づかされること。
それは、「与える」ことの本質です。
「与える」ことの本質は、「与える」モノにはありません。
「与える」ことの本質は、「心」の「体温」を渡すことなのです。
それは、「鉄骨」を渡る他者に、
もう一度足を踏み出す「勇気」を「与える」ことになります。