人生道場

「人生」を「幸せ」に生きるための心構え。
それは、「人生」を「道場」とすることだと、最近思いました。
 
イメージして下さい。
一人、あなたは「道場」に立っています。
もうすぐ、「稽古」が始まるところです。
 
あなたが「道場」に来た目的は二つ。
「今よりも強くなること」。
そして「鍛錬」を通じて「美しい心のあり方を目指すこと」。
 
「道場」で「稽古」をつけてもらっているのは、あなた一人。
他の人間は、あなたに「稽古」をつけるために来てくれました。
 
丁寧に優しく「稽古」の相手になってくれる人もいれば、
「強くなれ!」とばかりに、思いっきり投げ飛ばす人もいます。
 
あなたが生まれた時に、どんな「才能」を授かっていたかなんて関係ありません。
そして、生きていく中でどんな「痛い目」にあっても、構わず立ち上がります。
なぜなら「痛み」は「心」を磨くために必要なものだから。
 
また、他者がどんなに「才能」に恵まれていても、
それから、他者がどんなに運よく「痛い目」に合わずに済んでいても、
あなたは気にすることなく、自身の「鍛錬」にいそしむのです。
 
あなたは「道場」を去るまで、
ただただ「強さ」と「美しさ」を目指し、黙々と「稽古」を続けます。
少しずつ「強く」「美しく」なっていくことに「喜び」を覚え、
いよいよ「精進」するのです。
 
上記のような心持ちで日々を生きれば、
「心」が「苦しみ」に乱れることなく、
「喜び」と共にある「人生」を過ごせるのではないかと考えます。
 
ただし、上記のような心持ちになるには、以下の3つの「態度」が必要です。
(1)「私は、この世界の主人公である」
(2)「私に起こった出来事は、全て受け入れる」
(3)「私が死んだ後も、私は存在する」
 
(3)は、少しオカルトチックな感じもしますが、
実際に「死後の世界」があろうとなかろうと、
「死後の世界」が存在すると確信して生きられなければ、
「稽古」を続ける「動機」が失われてしまいます。
心構えとして「死後」にも「心」が存在すると信じることで、
死ぬ瞬間まで「心」を鍛錬する意味が生じるのです。
人間いつ死ぬかわからない。
だから、死ぬ瞬間まで「心」を鍛錬する意思がなければ、
日々「精進」することはできないのです。
 
(2)は、「起こった出来事」を「あり得ない」「対処不可能」と思わず、
全て自分の「稽古」のために起こったことだと捉えることで、
どんなことに対しても、100%の自分を発揮して対処することができます。
どんなに過酷な運命に対しても、「善処」すればよいのです。
自分のための「稽古」なのですから、100%の自分を発揮しさえすれば、
自分に「無力感」を感じる必要はありません。
例え、結果が「失敗」に終わったとしてもです。
 
(1)は、ちっとも図々しいことではありません。
「この世界は自分の稽古のためにある」と捉えて生きることで、
自分に起こる全ての出来事に対して生き生きと主体的に取り組むことができるのです。
数字で評価される偏差値社会や組織に貢献できなければ存在意義のない会社社会。
自分を「脇役」を思わせる仕掛けは、世の中に五万とあります。
自分を「脇役」と感じてしまうと、「苦しみ」を「試練」と捉えることができず、
「苦しみ」は自分を苦しめるために起きているものになってしまうのです。
そして、自分が世界の主人公であるという一見尊大とも取れる考え方も、
自分が「美しい」生き方を目指しているのであれば、誰にも迷惑がかかりません。
むしろ、「世界」にとっても好ましいことでしょう。
 
日々これ「鍛錬」。
「鍛錬」とは、普通は苦しいものです。
しかし、上記の3つの「態度」をとって生きるならば、
「鍛錬」こそが、「苦しみ」の多い「人生」を「幸せ」に生きる唯一の方法になるのです。
私は、この方法以外で、
様々な「理不尽」が待ち受ける「人生」を「幸せ」に生きる方法を思いつきません。