「蜘蛛の糸」

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」。
教科書教材にも、しばしば取り上げられていますので、
話の内容を知らない人は、まずいないのではないでしょうか?
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また、話の内容が陰鬱であることも、多くの人の記憶に残っている要因だと思います。
 
主人公である泥棒のカンダタ
彼は生前に行った数々の悪事により、死後地獄で苦しんでいんでいました。
しかし彼は、生前に蜘蛛の命を助けるという善行をしていたのです。
そのことを知った極楽にいるお釈迦様が、彼に一本の「蜘蛛の糸」を垂らします。
この糸をつたって登れば地獄から脱出して極楽まで行けるに違いないと判断したカンダタは、
上へ上へと登り始める訳です。
しかし、糸を登っている途中でカンダタが下を見ると、
無数の罪人が糸を伝って登ってきます。
このままでは、重みで糸が切れてしまうと、
カンダタは下の罪人達に「俺の糸だ。下りろ下りろ!」と喚き始めたのです。
すると、突然カンダタのいる上の部分から糸が切れ、
カンダタは再び地獄に堕ちてしまいました。
 
何とも、救いのない話です。
糸が切れて、再び落ちてしまうというエンディングも救いがありませんが、
もし糸が切れなかったとしても、一体どれだけ登ればよいのでしょうか?
100年?1000年?
実際も小説中には、地獄と極楽の間の距離は「何万里」と描かれています。
そんな距離を延々と登り続ける?
気が遠くなりそうです。
 
本当に暗いお話しなのですが、
なぜ多くの人の心に、この「蜘蛛の糸」の話は強く残るのでしょうか?
 
私は、この「蜘蛛の糸」の話が現実世界とオーバーラップしているからだと思います。
 
私たちは、必死に日々「蜘蛛の糸」を登り続けなければなりません。
満員電車に乗り、会社に行き、必死に仕事をこなす。
毎日毎日、登って登って登って、どこがゴールなんだろう?
何がゴールなんだろう?
 
せっかく必死な思いでいろいろなものを我慢して登ってきた糸が、
他の人間に切られそうになったら、
それは文句の一つも言いたくなります。
 
ゴールも見えず恐らく一生登り続けなければならないだろうという絶望の予測。
そして、苦労して我慢して死ぬ思いで「築き上げたモノ」も、
気前よく他者に渡さなければならないというジレンマ。
独り占めしようとしたら、「築き上げてきたモノ」は崩れ去り、
またゼロから始めないといけないという理不尽。
気前よく他者に渡したとしても、ゴールは見えてこない。
結局、苦しみの日々から逃れられない。
 
私の考える「蜘蛛の糸」の教訓は2つです。
(1)「我欲」はいけない。
   「我欲」を出すと、せっかく「築いてきたモノ」の価値がなくなる。
(2)「糸」は無心に登らなければいけない。
   無心に登れば、登った分の苦労への執着がなくなり、
   他者に気前よく「築いてきたモノ」を与えることができる。
   苦労して我慢して死ぬ思いで「築いたきたモノ」は、
   他者に「与える」時のみ価値が発生する。
   自分で独り占めする場合は、価値が消失する。
 
本当に、何キロメートル登ったら「極楽」にたどり着くのでしょうね。
私が、「蜘蛛の糸」を読んで受けた印象だと、
単に登っているだけでは永遠にたどり着かないループであるような気がします。
苦労して我慢して死ぬ思いで「築いてきたモノ」への執着を捨てて、
他者に軽やかに「与える」ことができるようになった時、
その「心」のあり方に、何か出口が見えてくるようなイメージです。
 
さてさて、この「人生」にゴールがあるかどうかはわかりませんが、
明日は明日とて、また「蜘蛛の糸」を登りましょう。
「無心」に。「我欲」を持たずに。いつか「極楽」の境地に辿り着けると信じて。
 
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