あなたの「心」の体重は何㎏?

「外部環境」は、動かせません。
雨が降っているのが嫌だから、「雨よ止め!」と思っても雨が止まないのと同じように、
「Aさんの○○が気にくわない」と思っても、Aさんは変わらないし、
「Aさんに○○が気にくわないから変えて」と話しても、Aさんは変わらない。
 
自分が気にくわないから、その「外部環境」に変わって欲しいと願うのは、
実は未熟な証拠だったりします。
子どもなら、泣けば親が「外部環境」を何とかしてくれる訳です。
しかし成長してしまうと、「外部環境」はテコでも動かせないくらい重くなっていきます。
 
そして「外部環境」は、動かないどころか、
相対的に軽くなった自分をいいように操ろうとします。
外部の他者が、どんどん自己に介入してくる訳です。
 
そうすると今度は、自分の「心」が動かされまいと重くなっていきます。
子どもの頃は、親の言うことを素直に信じていても、
成長すると、ちょっとしたことでは自分の価値観は動かなくなる訳です。
無論、自分の親と違って、
自己に介入しようとする外部の他者は、ほとんど「悪意」を持って近づいてくるので、
この変化は正当なことだと言えます。
簡単に自分の「心」が動いてしまうと、オセロの中島さんのようになってしまいますから。
 
しかし、「外部環境」も自身の「心」も、両方とも重くて動かせないとなると、
今度は自分が苦しくなってしまうのです。
「外部環境」と「自身の心」という近接する巨大な構造物の間に挟まれて、
身動きできない「自分」を想像してもらえるとよいと思います。
このような「外部環境」と「自分の心」の板挟みが「苦しみ」を生む訳です。
そのような環境下、もちろん「外部環境」はテコでも動きません。
そうすると「苦しみ」を解消するには、自分の「心」を動かさないといけない訳ですね。
しかし、自分の「心」の体重もものすごいことになっています。
もはや、自分ですら自分の「心」を動かせない訳です。
 
では、この状態を打破するにはどうしたらよいでしょうか?
それには、自分の「心」を動かす「鍵」を手に入れる必要があります。
本来、自分の「心」は自動車のように自分の意のままに操縦できるものです。
「変えよう」と思えば、変わるものだったりします。
だけども、私も含めて多分多くの人が「心」を動かす「鍵」を見失っています。
 
この「鍵」を見つけると、初めて「苦しみ」から解放される訳です。
「外部環境」が動かなくたって、「心」を軽やかに動かせるのならば、
自分はその隙間から脱出し、何事にも囚われなくなりますから。
 
きっと「鍵」は、足下とかものすごい近いところに落ちているはずです。
車に乗っていて、車の「鍵」を探しているような状況。
 
苦しいのなら、まず何よりも先にやるべきことは、
自分の「心」を動かす「鍵」を見つけること。
「心」をどうすべきかを考えるより先に、
「心」が動かない状況を、まずは認識することが第一優先なのです。
 
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