外と闘うな、己と闘え

西郷隆盛さんの教えを読める「西郷南洲翁遺訓」という書籍があります。
PHP出版「話し言葉で読める西郷南洲翁遺訓」長尾剛さん著)
 
日本という国を新たな時代に導いた西郷さんの
人生に対する考察がスパッと明快に書かれており、
「なるほど」と思わせる内容の書籍です。
 
この書籍の中に「克己」についての記載があります。
 
「克己」とは、己(おのれ)に克(か)つこと。
西郷さん曰く。
 人の心には、二つの「己」があります。
 すなわち「自分勝手でワガママな己」と
 「そんな己を反省し、自ら諫めようとする己」である。
 「克己」とは、後者の己が、前者の己を超えることである。
 自分勝手でワガママな心を、自らの心で適度に抑え、
 自らの心で正しく導くことである。
 
二つの「己」。
私は、それを「遺伝子(本能)」と「心」だと解釈しました。
 
「克己」とは、すなわち「遺伝子(本能)」との「闘い」です。
 「与える」のか「奪う」のか。
 「自律」するのか「他律」に甘んじるのか。
 「自立」するのか「依存」するのか。
 「努力」するのか「何もせぬ」のか。
 「浪費」するのか「我慢」するのか。
 
私は最近、この心の中の「遺伝子(本能)」との闘いを意識するようになりました。
具体的には、
「○○した方がよい」という心の声に耳を傾け、聴き漏らさないようにすることです。
 
意識し出すと、随所随所で「○○した方がよい」という声が聴こえてきます。
注意しないと聴き漏らしてしまうような、小さな音量の時も多いです。
どんな声かと言うと、
例えば、朝起きる時に「今、起きた方がよい」。
休日のお昼前に「今からでも、皇居ランした方がよい」。
会社の帰りにコンビニに寄っても「今から、食べない方がよい」。
 
これらの声を無視せずに、大切なものであると捉え、
そっちの声に従う。
 
「そっち」と表現したのは、その後にもう一つ声が聞こえてくるからです。
それは、「でも、○○したい」。
「今、起きた方がよい」「でも、今は寝たい」
「今からでも、皇居ランした方がよい」「でも、今は走りたくない」
「今から、食べない方がよい」「でも、今食べたい」
 
「でも、○○したい」は、「遺伝子(本能)」の声ですね。
私は、心の中の両勢力の闘いをしっかりと意識するようにしています。
無意識でいると、「でも・・」勢力が勝ってしまうことが多いです。
また、闘いの場は「今」であることを、意識するようにしています。
決して「後」ではなく、闘うべきは「今」なのです。
 
「今」を制していくと、どうなるか?
今度は、「でも・・」の声の音量が段々と小さくなります。
まあ、しかし完全に消すことはできません。
悟ったら別かもしれませんが、
体調を崩したり、外部要因で生活のバランスが崩れたりすると、
「でも・・」勢力は、一気に力を盛り返します。
 
争いごとはよくないと言いますが、
この心の中の闘いは、意識的に行うべきですね。
「幸せ」になるための闘いですから。
「今」の闘いの積み重ねが、一日となり一年となり「人生」となります。
「今」を「遺伝子(本能)」に判断させないことによって、
「人生」を「他律」から「自律」に引き戻す。
「自律」は、「フランクル心理学」の「態度価値」にも通ずる「幸せ」のキーワードです。
フランクル心理学については、過去ブログで)
人は、「自律」して生きることによって、
外部からの「理不尽」という暴風雨に対しても、「自分」を保つことができる。
 
世界は「理不尽」であります。
しかし、外と争ってはいけない。
不毛だからです。 
 
私は苦しい時、苦しみの元となっている人に、
「何とかして欲しい」と懇願したことが過去に何度かあります。
ですが結果はいつも、更に傷つけられて終わります。
「傷つけたい」「人格を否定したい」という欲求に勝てない「奪う人」達は、
相手が懇願に来たら、ニヤリとして無防備なところを更にえぐってくる訳です。
 
じゃあ、相手をたたきつぶせばよいのか?
それも違います。
相手をたたきつぶせるかどうかもわからないし、
例え、たたきつぶしても得られるものは何ですか?
「心」の成長は、ありません。
相手を屈服させたいという「快楽」だけが報酬でしょう。
そんなくだらないことに、時間と心的エネルギーを浪費するくらいなら、
「克己」の闘いにいそしむか、
「与える人」と出会い「与える人」と何かを創造していく方が、
「実りのある人生」すなわち「幸せ」を手に入れられると確信しています。
 
ところで、「与える人」と出会うにはどうしたらよいでしょうか?
私は「克己」の闘いを続けていれば、必ず「与える人」との出会いがあると考えています。
自分も相手を「与える人」と識別できるし、
相手も自分のことを本能の欲求に流されずに生きている「与える人」と識別できるからです。
「類は友を呼ぶ」という法則は、
物理学で言う「万有引力」のように、
生きる上で大原則となる非常に重要な原理だと私は考えています。
 
さて、外との闘いで得られるものは、
財産や名誉や権力や優越感や安心感と言ったところでしょうか?
これらはいくら所有していても、死んだら持っていけないし、
常に他者に奪われないか心配しないといけません。
本当に必要なのでしょうか?
私は、いりません。
「克己」した方が、よっぽど「幸せ」でしょう。
「克己」して高まった「心」は誰にも奪われることがないし、
外部の「理不尽」にも、「自律的」に対処できるので、
「不幸せ」な気持ちが発生する余地もありません。
 
外との闘いは、「克己」した後で十分です。
ちっぽけな私闘なんて、やっている暇はありません。
やるなら、
西郷さんの闘いのように、「与える」ための闘いを。
 
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