「プライバシー」とは何か?

過去ブログで、「シャドウ」という心理学の概念のお話をしました。
 
「シャドウ」とは、意識にとって許容できない自分の暗黒面のこと。
つまり、例えば幼少期に「おしとやかにしていなさい」と親から強く躾けられた女の子が、
その後(大人になっても)、活発なタイプの女性を見た時に、
無意識に嫌悪することです。
もちろん本人にも「活発な私」という人格がいるのですが、
その人格は、自分の意識の中で押し殺されています。
そして、他者の中にも「活発」な人格を見た時、
自分の意識の中と同様に、その人格すらも押し殺そうとする現象です。
 
あなたにも「こういうタイプや言動は許せない」というものが、ありませんか?
 
「シャドウ」を紹介した時の過去のブログでは、
私の嫌悪するタイプとして、
「周りが一生懸命頑張っているのに、サボる人」を挙げました。
 
実は、もう一つ「許せないタイプ」があります。
「人のプライバシーを見ようとする人」です。
 
私が昔辞めた会社の社長は、「プライバシー」を平気で侵害する人でした。
その社長は、会社を退社する時に
自分の引き出しにボイスレコーダーを毎日セットしていました。
そしてある日、居酒屋で飲んでいる時に、
社長の知り得ないことが、社長の口から従業員に投げかけられたのです。
従業員は、なんでそんなことを知っているのか怪訝な顔をしました。
すると、酔いの勢いもあったのか、
自身が毎夜ボイスレコーダーをセットしていたことを明かしたのです。
その話を聞いて、従業員は「どん引き」したのは言うまでもありません。
 
その後、私はほどなくしてこの会社を辞めました。
 
「人のプライバシーを見ようとするタイプ」に、
私はざわざわとしたものを心に感じるのです。
 
ただ自身の秘密が誰かに知れることには、そんなに抵抗感を感じません。
私は自分の「価値」を、自分で決めているから。
他者が私を見てどう感じようが、それは外部要因。私のコントロール外。
私が自分の「価値」として信じているのは、いかに「与えて」きたかという事実だけ。
もっと言えば、いかに周りを「幸せ」にできたか?が私の「価値」だと思っています。
 
では、なぜ「人のプライバシーを見ようとする」人に、嫌悪感を抱くのか?
それは、その人の「他者のプライバシーを見ようとする」人格が
私にとっての「シャドウ」だからでしょう。
 
そもそも、「人のプライバシーを見たいという欲求」は、
どういう「心」の動きなのでしょうか?
それは、本来外部要因である他者を完全所有したいという「欲求」です。
他者がわざわざ自分用の「ペルソナ(仮面)」を創って用意してくれているのに、
その「ペルソナ(仮面)」をはぎ取って、中身を見ようとする行為。
自分のホームパーティーに来てくれた人に対して、
このパーティーは自分のパーティーだから、
「タキシードを脱いで裸になれ」と客に要求するような行為です。
(ペルソナについては、過去ブログをどうぞ)
 
完全無欠な人間なんて、この世界にはいません。
それでも、人は成長しようとします。
「ペルソナ(仮面)」は、言わば「心」の「かさぶた」です。
社会に適応するために「ペルソナ」を形成し、
そしてその間に、「かさぶた」の裏の「膿」を改善しようと模索する人も多くいます。
 
ところで、「かさぶた」の裏の「膿」は、自分でコントロールできない外部要因です。
生まれ持ってきた「資質」「欲望」、幼少期の「育成環境」。
そういった、人それぞれに課された「重し」を乗り越えることが、
「心(私)」の成長だと、私は考えます。
 
大事なことは、「私」がコントロールする権利のある「心」の方です。
権利がある以上、責任も伴う訳で、
「膿」を「かさぶた(ペルソナ)」で覆い隠すことは「心」の仕事となります。
 
しかし、わざわざ「かさぶた」の中を見に来る人に対しては、
「心」の責任の範囲外なんだから、知ったこっちゃありませんよね。
「かさぶた」の中を見るという行為は、
その人の「心」を無視して、その人の「傷」を確認しようとする行為です。
そして、「心」でなく「傷」こそが、その人の本来の姿であると信じる行為です。
 
それは、「人」を「モノ」として見ていることに他なりません。
「人」は、「心」と「モノ」に分解されます。
「モノ」の部分は、「資質」「欲望」「才能」「幼少期の育成環境」。
本人に否応なく押しつけられた「重し」です。この部分自体に本人の責任はありません。
そして、「心」というのが、分別がつくようになってからの「私」の部分です。
「心(私)」は、自分に託された「重し」の部分が、
他者に迷惑を掛けないように懸命に努力します。
その結果、「ペルソナ(かさぶた)」が形成される訳です。
 
そう考えると、人のプライバシーを閲覧しようとする行為は、
その人の「心」の懸命な営みを真っ向から否定する行為、
すなわち「その人自身」を否定する行為なのだと思います。
 
私は、そういうのは嫌です。
私は元の「資質」が弱いから、余計そう思えるのかもしれませんが、
自分は「心」の部分で、自分の「価値」を創造したいし、
他者と接する際も、他者の「心」の部分を見つめて接していきたいと思います。
 
さてブログも描き終わったので、
私の「心」の判断により、これから「皇居ラン」をしてきますかね。
 
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