「いじめ」を「陰」と「陽」で見てみよう

今、社会問題となっている「いじめ」。
悲惨なその実体に、私も含め多くの人々が「心」を痛めています。
 
実は、この深刻な問題の構図は意外にシンプルです。
登場人物は、「いじめる側」と「いじめられる側」だけ。
複雑な利害関係もなく、黒幕なんてものも存在しません。
また「いじめ」の動機も、非常にシンプルですね。
理屈やイデオロギーなんてものも存在せず、ただ「快」「不快」の感情で引き起こされます。
だから、大人の世界だけでなく子どもの世界でも「いじめ」は発生する訳です。
人が生まれて初めて遭遇する「理不尽」の一つが、この「いじめ」なのかもしれません。
 
思うのですが、
「いじめ」とは、「社会」で起こる「理不尽」の
最も根本的な「雛形」の一つなのではないでしょうか?
「世界」に溢れる多くの「苦しみ」が、
この「いじめ」の構造を核とした事象によって発生しているように思われます。
 
「いじめ」なんて体験したこともないし、
自分には関係ない話だよと思う人も多くいらっしゃるでしょう。
しかし、
「もし、自分がいじめられたらどう対処するか?」
「もし、子どもにいじめを相談されたらどう答えるか?」
「もし、子どもがいじめをしていることを知ったらどう諭すか?」
というようなバーチャルな想定問答は、
この「世界」を生存していく上で非常に重要なことであるように感じます。
これらのシチュエーションを想像し対策を練ることは、あたかも積み将棋のように、
「幸せ」な「生き方」の定石を得ることにつながつと思うのです。
 
さて、実際に考えてみましょう。
一つ断っておきますが、以下はあくまで私の考察です。
上記の想定問答は、人それぞれ様々な答えが出る問題だと考ています。
 
「いじめる側」と「いじめられる側」。
両者は相容れない関係であると言えます。
「いじめる側」からしてみれば、「いじめられる側」の「心」を認識できない。
「いじめられる側」からしてみても、「いじめる側」の「心」を理解することはできない。
私は、「いじめ」の本質はここにあると思っています。
すなわち、双方ともに相手に自分と同じ「心」があると認識できなくなるということ。
相手を、「心」のない「モノ」のように認識しているということ。
 
「えっ」と不思議に思う人もいるかもしれません。
「いじめる側」はそうかもしれないけど、「いじめられる側」は違うんじゃないの?と。
これは「いじめらる側」になったことのある自分の個人体験が基になりますが、
私は「いじめられる側」においても、
「いじめる側」の「心」を無視しようとする現象が生じると考えます。
 
「いじめ」において表面上実際に発生している事象は一方的な加虐ですが、
精神の内面上の観点から「いじめ」の本質を眺めると、
「いじめる側」と「いじめられる側」の双方の「闘争」と捉えることができます。
「いじめる側」が知ったら驚くほどの相手への「憎しみ」や「怒り」が、
「いじめられる側」の「心」に渦巻くからです。
その「心」の状態は「戦時」と呼ぶのが相応しいほどの特殊な状況となります。
その過程において、(戦争当事国同士が相手を「鬼畜」と呼ぶように、)
「いじめられる側」も相手の「心」を無視することでリミッターを解除し、
相手を憎み蔑むようになるのです。
どんなにおとなしそうな子でも、
「いじめ」に遭遇すると「心」は上記のような状態になると想像します。
相手への「憎しみ」や「怒り」がなければ、
「いじめられる側」は苦しくはないでしょうし、
おそらく「いじめる側」も「いじめ」を執拗に続けようとは思わないでしょう。
「いじめ」の燃料は、お互いの「心」の中の「闘争心」なのだと思います。
 
このように考えていくと、「いじめ」の真因は、
戦争国同士のように決して交わらない互いの相互理解の壊滅なのだと思う次第です。
 
とは言え、
「いじめ」をなくしたいのなら「いじめられる側」は相手を憎むのを止めましょう
と言うつもりはありません。
マハトマ・ガンジー氏のレベルにならなければ、そんなことは不可能だと思うからです。
 
ここでは、もしこうだったら「いじめ」なんてなくなるよという理想論ではなく、
「いじめ」という現象を客観的に分析したいと思います。
そして、そこから「人生」に活用できるエッセンスを抽出したいと思う次第です。
 
話を戻します。
「いじめ」とは、お互いがお互いを認めない相容れない状態。
楽観的な平和論では乗り越えることのできない根本的な「溝」。
これは「陰」と「陽」の関係にあたるのではないかと、私は考えました。
 

 
「いじめ」は存在してはならないものではなく、
「陰」と「陽」のように世の中にあまねく存在する一要素だと考えたのです。
「陰」と「陽」は、決して交わりません。
ウィキペディアによると、
「陰」と「陽」は相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ないものだそうです。
そして、森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、
「陰」と「陽」の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれると書かれています。
更に重要なことは、陰陽二元論が、
この世のものを善と悪に分ける善悪二元論とは異なると言うことです。
「陽」や「陰」に善悪はなく、「陽」と「陰」は等しい価値を持つ訳です。
 
「いじめ」における「陽」とは、
自身の感情を平気で他者にぶつけることができる価値観の人々。
自分のためだけに生きることができる人々。
 
「いじめ」における「陰」とは、
自身の感情を他者にぶつけることができない価値観の人々。
周囲の評価を気にするような、他者の中に自分の生きる価値を見出す人々。
 
あなたは生きてきて、
この人とは、根本の所からわかりあえないなと思ったことはありませんか?
おそらく相手も自分のことを理解できないだろうし、
自分も相手がなぜそんな価値観で平気なのか理解できないというようなことが。
 
このような二つの相容れない存在が、「陰」と「陽」なのです。
「陰」と「陽」は決して、混じることはない。
そして、必ず相反します。
 
「いじめ」も「陰」と「陽」の関係だと捉えるならば、
「愛」や「友和」という同質化的な観点では「いじめ」の解決は困難です。
そうではなくて、
相手を「対極」と認識し、
「世界」の構造的に「対立」は避けられないものだと捉える必要があります。
 
自分も相手も「価値」は同等だけど、「対極」にあるという考え方。
これこそが、「いじめ」の「苦しみ」や「衝動」から逃れる考え方だと思うのです。
 
「いじめ」は、どちらかが正しいという「善悪論」では決して解決しません。
「いじめられる側」は、
「いじめ」を「許せない事象」ではなく、
「普遍的に存在する事象」が、単に顕在化したものだと客観的に捉えることで、
本人や周囲の親は、冷静に戦略的に問題の解決策を模索できるのです。
そして一度問題を乗り越えることができれば、今後の「人生」に大いに役立つと思います。
 
一方「いじめる側」を諫めることは、なかなか難しいかもしれませんが、
世の中は「陰」と「陽」とで成り立っていることを理解することができれば、
自身とは「異なる」存在でも相手が同じ「価値」を持っていることに、
気づくことができるかもしれませんね。
 
「異質」なものは「異常」で「劣っている」という価値観の現在において、
「陰陽」の思想は両者の対立の激化を抑え、「異質」を受け入れる素地を生むと思うのです。