もう少し「世界」を「陰陽」で見つめてみる

前回は「いじめ」を「陰陽」の観点から捉えることで、
「いじめ」の当事者双方の対処策を考えてみました。
 
「いじめ」の現場において、
「いじめる側」と「いじめられる側」は決して同質化しない「対極」の存在。
「愛」や「友和」というお題目で相手を受け入れるという試みでは
実際には解決できないことを理解した上で、
どう「対極」の存在と向き合うか冷静に対処していく必要があります。
「対極」に対する、ほどよい接し方を会得して「調和」を図ることが、解決への道です。
そして、善悪論のようにどちらかが正しいと言うことでなく、
「いじめる側」も「いじめられる側」も同様に「世界」の構成要素であり、
同等の「価値」があることを認めることが大切である。
 
私は、この「陰陽」の考え方を気に入りました。
とても、しっくりくるのです。
 
私は過去に「いじめられる側」であった時、
「いじめる側」に「もうやめてくれ」と頼んでも、
その言葉は「ブレーキ」にならず、逆に「アクセル」となりました。
「いじめる側」は、「いじめられる側」の「怒り」や「苦しみ」を動機としています。
「いじめる側」は「いじめられる側」に対する「対立」を解くことはできません。
 
同様に、「いじめられる側」も「いじめる側」への「対立」を解くことはできません。
マハトマ・ガンジー氏のようなレベルまで行けば、
相手への「憎しみ」という「対立」を解くことができるでしょうが、
私は、相手への「憎しみ」や「怒り」の炎で、自らを焼いているような状態でした。
「いじめられる側」の「憎しみ」や「怒り」からくる「苦しみ」を感じると、
「いじめる側」は、そこに愉悦を感じてしまい更に「いじめ」は加速していく。
 
何だか前回の繰り返しのような内容になっていますが、もう少し続けます。
「いじめ」とは、「対極」同士の「闘争」なのです。
「いじめられる側」だって、想像の中では、何度「いじめる側」を惨殺していることか。
そして、互いの「属性」も「対極」と呼べるほど異なります。
 
「陽」である「いじめる側」は、
自身の感情を平気で他者にぶつけることができる価値観の人々。
自分のためだけに生きることができる人々。
 
「陰」である「いじめられる側」は、
自身の感情を他者にぶつけることができない価値観の人々。
周囲の評価を気にするような、他者の中に自分の生きる価値を見出す人々。
 
「対立」する「対極」の「属性」。
これは、まさに「陰」と「陽」だと考えた訳です。
 
さて、興味深い思想の「陰陽」。
ウィキペディアによりますと、
分類された「対極」の属性のうち、
受動的な性質を持つものが「陰」、能動的な性質を持つものが「陽」と呼ばれます。
例えば具体的には、
「陰」は「闇・暗・柔・水・冬・夜・植物・女」
「陽」は「光・明・剛・火・夏・昼・動物・男」という具合に。
これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在することができません。
 
そして、私は考えるのです。
人間を「陰」と「陽」に分解するとしたら、どういう区分になるか。
もちろん、生理学的には「女」と「男」があるでしょう。
ただそれとは別に、
もっと内面の「本質」、
精神的な「価値観」のようなレベルにおいて分解するとしたらどうなるか?
 
私は、かれこれ1年半以上、今までに300本以上のブログ記事を描き続けています。
その中の多くの記事で「考察」してきたことが、人や「人生」の「本質」でした。
それらの「考察」を積み重ねて、
今私は、人における「陰」と「陽」とはこれだ!という直感を持っています。
 
人における「陰」は、「共感」。
人における「陽」は、「競争」。
 
「生命」が最初に地球に誕生した時、生物は爆発的に増殖を繰り返しました。
しかし、やがて増殖するための「資源」が枯渇し、「生命」は「競争」を開始します。
あたかも、映画の「バトル・ロワイヤル」のように、
「これから皆さんに殺し合いを始めてもらいます」と「生命」達は何者かに宣告されたのです。
(関連過去記事:「バトル・ロワイヤル」もしくは「蠱毒(こどく)」
「競争」の始まりが、「苦しみ」と「快楽」の始まりとなりました。
「競争」に勝つために、「遺伝子」は「生命」に対して、
「苦痛」というムチと「快楽」というアメを用意した訳です。
現在でも、多くの生物たちは「北斗の拳」の世界のような、
悲惨な「弱肉強食」の世界に生きています。
昆虫の仁義なき世界を見れば、そのことはわかるでしょう。
例えばカマキリの雌は、交尾中にカマキリの雄を食うよう「遺伝子」に命令されています。
また寄生蜂は、昆虫の子どもに卵を産みつけ、
孵化した寄生蜂の子ども達のエサにしてしまうのです。
卵を産みつけられた昆虫の子どもの「苦しみ」は、いかほどのものか。
(昆虫には「痛覚」がないとも言われていますが、それにしてもです)
もちろん人間だって、豚や牛を殺して生きています。
 
「競争」は、「生命」に様々なものをもたらしました。
「苦しみ」と「快楽」の他にも、
ライオンのような「強さ」、擬態するカメレオンのような「巧妙さ」、
コバンザメのような「したたかさ」、
子どもを他の鳥に育てさせるカッコーのような「ずるさ」、
宿主の脳を操作する寄生虫のような「おぞましさ」、
宿主を内側から殺して自らを繁殖させる病原菌のような「卑怯さ」。
そして、最後に「共感」を。
 
そう。
「生命」が開けた「進化」という「パンドラの箱」の最後には、
「共感」が入っていたのです。
 
「共感」は、ほ乳類や鳥類のみに見られる特徴です。
(「共感」について詳しくは、過去記事をどうぞ)
「共感」とは、「優しさ」「愛」「友情」「博愛」「慈悲」「感動」。
最後に登場した「共感」はことさら美しく、人間はよく音楽や小説や映画のテーマにします。
「共感」があるからこそ、「芸術」が生まれた訳です。
 
そして、自然を支配するギリシャ神話の主神ゼウスが、
人類の味方をするプロメテウスと対立したように、
やがて「共感」は「競争」と対立する関係になっていきました。
(プロメテウスとゼウスについて詳しくは、過去記事をどうぞ)
 
「競争」あるが故に戦争を叫び、「共感」あるが故に平和を叫ぶ。
「競争」あるが故に「いじめ」が起こり、「共感」あるが故に「いじめ」を悲しむ。
 
どうでしょうか?
「競争」と「共感」が、人間の「世界」における最も大きな「対極」だとは思いませんか?
ちょっと「共感」をひいき目に描いてしまいましたが、
もちろん「競争」にも、
生命がこの「世界」と対峙するための「強さ」を産み出す役割がある訳です。
 
この「陰」と「陽」。
まだまだ「陰」の「共感」は生まれたばかりで、
圧倒的に「陽」の「競争」が強い状態だと思います。
しかし「競争」という「陽」が強すぎてバランスが崩れると、
人々が「不幸」になることは事実。
 
今「競争」と「共感」を調和させることこそが、人類の命題だと私は考える次第です。
 
では、「共感」のパワーが強すぎるとどうなるのか?
「進歩」を放棄した国家が他国に侵略されるか、
「進化」を放棄した人類が他の生命に駆逐されるか。
このような結末が見込まれます。
 
でも今は「競争」が強すぎて、
「共感」の行き過ぎを心配することは杞憂というものです。
今は、「競争」の行き過ぎのみに注力すればよいように思います。
 
ただネット環境の普及で、
局所的に「共感」が優勢になってバランスが崩れることもあります。
滋賀県の中学校で起きた「いじめ」加害者への憤りは「共感」の賜でしょう。
私個人も、加害者や加害者を不当にかばい続けた人物達に憤りを感じる一人ですが、
冷静な目で見た時に、
ネット上での加害者側への敵視的な言動は、いささかバランスを崩しているように見えます。
 
さて実際には、現在の「競争」と「共感」はどのようなパワーバランスでしょうか?
私は、今の時代「競争」に対して「共感」が徐々に拮抗しつつあることを感じています。
まだ明らかに目に見える訳ではありませんが、「兆し」は出てきていると考える次第です。
 
上記考察を受けて、私はこう考えます。
 
今後しばらく人類の精神上の「命題」や「議論」は、
「共感」を「競争」にいかに「対立」させるかというテーマになっていくはず。
そして大局では
「共感」が「競争」に「調和」できるレベルまで
徐々に成長していくのではないかと考えています。
 
「競争」と「共感」が「調和」した時、
人類の精神は、今までのサナギを脱ぎ捨て、
新たなステージに進むのではないかと考える次第です。