さあ、「葉」を広げよう

私は、私の人生を「考察」する上で、
総括して自分の中で整理しなければいけないことが一つあります。
 
それは、私がずっと「独り」だったということ。
 
端的に言えば、私は「コミュ障」だったのです。
「コミュ障」とは、コミュニケーション障害の略であり、
私は生まれてからずっと、これに苦しめられてきました。
 
「自分は人と違う」と気付いたのは、中学校に入ってからかな。
私は、友達を作ることができなかったのです。
あの頃は、他者の「心」の動きに、ついていけない自分がいました。
「いい子」でいることしか、知らなかった私は、
同級生の発するアウトローな感じに嫌悪を抱いていました。
例えば、クラスの皆が教室の掃除をサボる中、
学級委員長の私は一人で床のぞうきん掛けをしていたのです。
 
周りの同級生は、なぜ言われたことをやらないのだろう?
それを理解できない私は、周りの同級生を近寄りがたい存在と考え、
「心」に壁を造っていきました。
特に、人をバカにしたり傷つけたりする行為には、憎しみすら覚えていました。
なぜ真面目に授業をしている先生を笑ってバカにすることができるのか?
なぜ特定の同級生のことを皆で悪く言って笑い合うことができるのか?
 
最初は、私のそういった違和感や嫌悪が正しいと思っていたのですが、
すぐに何が正しいのかわからなくなりました。
なぜなら、私が「間違っている」と感じていることを、
クラスの主流派は喜々として行い、そして誰もそれに異を唱えなかったから。
 
きっと「自分」が間違っているんだなと、当然考える訳です。
だけど、「違和感」は拭えないから、周りに同調することもできない。
そんな、「自分」という軸を持てないまま、
それどころか、「自分」を否定したまま、フワフワ生きてきたように思います。
 
高校、大学、社会人、と「自分」がないまま、生きてきました。
「自分」がないので、「金魚の糞」と揶揄されたこともあります。
 
また、少しばかり悪いことができる人の方が異性にもてるように、私には感じました。
青春時代には、異性のことは最大の関心事。
「自分」ではない人間になりたいと、切に願ったものです。
 
だけど、そんなことは無理。
器用に自分を騙したら変われたのかもしれませんが、
不器用な私は、違う存在になろうとしても、
「自分」の発する「違和感」に足を取られて、同じ所を右往左往するばかり。
 
「こんな自分は嫌だ!だけど変われない・・」
この「何者でもない自分」は、
他者とのコミュニケーションも十分にできません。
発する言葉は、相手への同調ばかり。相手の望むことばかり。
「自分」を主張できなければ、コミュニケーションはただのおつき合いです。
私にとって、コミュニケーションは苦痛でしかありませんでした。
 
社会人になったら、少しはマシになるかと淡い期待もしました。
もちろん、学生の集団に比べたら、分別のある大人の世界です。
「真面目」な自分がある程度、評価されるのを感じることもできました。
だけど、それは「公式」の世界での話。
仕事以外の「非公式」の場では、
「自分」を殺している人間に魅力がある訳もなく、やはり孤立していました。
 
そして、コミュニケーションを避けてきた人間的に未熟な私は、
人間関係で問題を起こし会社を辞めたのです。
 
あの時、私は同じ職場の後輩に恋をしました。
しかし恋をすると同時に、その子が同じ職場の先輩と不倫をしていることを知ったのです。
未熟な私は、その不倫相手の先輩に敵対心を持つようになりました。
 
その時、その先輩の奥さんは妊娠をしていたのですが、
自身の欲望を優先させ、護らなければいけない人を平気で裏切るような
その先輩の行為に、私は余計に憎しみの炎を燃やしたのです。
 
結果、私は職場でその先輩と対立することとなり、
その先輩からの報復として、私は職場でハブにされ干され、
そしてノイローゼとなり最初の会社を退職することになりました。
 
そして社会のレールを外れた私は、本当に「何者」でもなくなったのです。
「何者」でもない私は、「もうこの世から消えたい」という想いを抱え、
それでも「仕事」をして生きてきました。
 
そんな状態となって、ようやく私は「自分」と向き合うことができるようになったんですね。
多分、「死んでもいい」と思うくらい、何もかもがどうでもよくなったからだと思います。
「社会」に同調しなければいけないという強迫観念が消え、
何も考えることがなくなって初めて、そこに「自分」がいたことに気づいたのです。
 
「自分」の声に耳を傾け、「自分」とはどんなヤツかを知りました。
それは、「正しい」とか「正しくない」とかそういう問題でなく、
人の「幸せ」を心から喜び、
「感情」や「欲望」に任せて人を傷つける人間が心から嫌いな自分。
 
言葉で書いたら、「正しい」ように見えるでしょうが、
はたしてこの「世界」で「正しい」のかは、わかりませんでした。
例えば、私の元いた職場では、不倫なんて当たり前にありましたから。
おそらく、私の価値観は今の「社会」から見たら、間違っています。
多くの人は、人を平気で傷つけることや、人から搾取することを肯定しているようですから。
 
だけど、ドロップアウトした私は、
もうその「社会」につきあうつもりはさらさらありませんでした。
そして、「自分」というものが「他者」にどこまで受け入れられるか
試してみたいと思いました。
 
ここからです。
 
自分のあり方を整理するため、本を読みあさり考察を重ね、
自分の思ったように人に接してみる。仕事をしてみる。
その結果、「あ、自分はこれでいいんだ」と思うことができたのです。
 
もちろん、ここに到達するまでには長い期間がかかりました。
実際に誠心誠意相手の「幸せ」を考え仕事をしたときの反応を噛み締めて、
「自分」は間違っていないという手応えを掴むのにかかった期間は4年ほどです。
「お金」という人を惑わせる社会において最も強烈な価値観を、
自分の価値観と照合し、自分なりに見切ることができたのにも数年。
「幸せ」って何か?「生きる」って何か?これらを自分なりに理解できるようになったのは、
ブログを描き始めて2年弱といったところです。
 
私は、ようやく地に足をつけ「根」を張ることができるようになりました。
そうして初めて、「世界」に「葉」を広げて、「花」を咲かせる準備が整ったのです。
 
私は今、仕事の他にも様々な「活動」を始めました。
多くは、このブログで「自分」を「発信」をしたお陰です。
読書会「Shablio(シェブリオ)」への参加、
それから来週の土曜日には、
ホームレスを支援する「The Big Issue」のパーティーに参加する予定です。
先日は「月3万円ビジネス」を提唱する藤村先生の話を聴きに行きました。
 
自分にとっての栄養源となる「太陽」がわかったので、そこに「葉」を広げているのです。
そして、「葉」を広げれば広げるほど、
自分がどんな「花」を咲かせるのかイメージが明確になっていきます。
 
そして、この「ブログ」自体も私という「種」から初めて出てきた
「二葉」だったんだなぁと、今は認識しています。
「ブログ」で「自分」を発信するという最初の「二葉」は、
見事「太陽」がこの「世界」にあることを発見したのです。
そう言えば、「言葉」って「葉」がついていますね。
もしかしたら、自分の「言葉」を発することで、
自分にとっての太陽の位置を探るという役割が
「言葉」の「葉」という字に込められていたりして。
 
実はこの「ブログ」という「二葉」のお陰で、
私は素敵で大切な出会いを見つけることができました。
 
そして、元々「コミュ障」だと自認していた私ですが、
私の発した「言葉」という「葉」に反応して下さって出会った人々とは、
普通に会話を楽しむこともできたのです。
 
もう昔の私はいません。
見えますか?
自分という「大地」に「根」を張って「葉」を「太陽」に広げつつある私を。
 
こうして私は、「世界」での「生き方」を知ったのです。
 
実は、今回のブログを描き上げるのに、足掛け3日を要しました。
それだけ、大事な内容を描けたと思っている次第です。
「真」に自分に「自信」を持ち「幸せ」になるための「道」が、ここにあります。
 
人は皆「種」です。
いつ「大地」に「根」を出しますか?
いつ「二葉」を発芽しますか?
いつ「葉」を「太陽」に向かって生い茂らせますか?
そして、いつあなただけの、涙が出るほど素敵な「花」を咲かせるのですか?
 

 
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