「良心」と「本能」、相対するもの

「人」とは何か?
私の現時点の人間観は、以下のとおりです。
 
「人」=「魂」+「遺伝子」
 
そしてこの式は、こう描き直すこともできます。
 
「心」=「良心」+「本能」
 
この「魂」と「遺伝子」、あるいは「良心」と「本能」は、
全く次元の異なる異質な組み合わせです。
二つの間には明確に線引きが可能で、中間の存在というものはありません。
それでいて、この異質な存在同士は同居しています。
 
この構図は、まさに「陰陽」の構図です。

※関連過去ブログ:
 「「いじめ」を「陰」と「陽」で見てみよう
 「もう少し「世界」を「陰陽」で見つめてみる
 「ヘーゲルの弁証法
 
さて、このように「心」は、全く異質な二つの極で構成されています。
そして、人も以下のどちらかのグループに属すると考える次第です。
(1)自分の所在を「良心」と認識し、「本能」を異物と捉えている人
(2)自分の所在を「本能」と認識し、「良心」を異物と捉えている人
 
上記、(1)と(2)の中間は存在しません。
「東」か「西」かという質問に、中間の答えが存在しないように。
 
私は(1)のグループです。
しかし、(2)の方々も結構多くいらっしゃいます。
 
例えば、何かよいことをやった人を「偽善者」という人々。
彼らは、自身の軸足が「本能(欲望)」であるが故に、
人間の本質や正体を「本能(欲望)」であると捉え、
人間のどんな行為の裏にも「本能(欲望)」があるはずと考える訳です。
 
(1)と(2)の人々同士はお互い、
決して混じり合うことのない「陰」と「陽」の関係になります。
 
「陰」と「陽」は対立する。
(1)の私は正直なところ、
自分の「欲望」を制御するという観念も持たない(2)の人々は嫌いです。
多分(2)の人々も、(1)を信用しない。
 
「陰」と「陽」は同居する。
しかし、社会は(1)のタイプの人々だけで構成されている訳ではありません。
(2)のタイプの人々の影響を完全に無視して生活することなどできないのです。
例えば、(2)のタイプの人々から、
エゴのような自身の「本能(欲望)」から来るネガティブな言葉をぶつけられた時、
私の心にも「怒り」というネガティブなエネルギーが宿ります。
世の中、(1)のタイプの人々だけだったらよいのに・・・と昔は考えたものですが、
現実として(2)のタイプの人々も確かに存在する。
同居していることには、きっと何か意味があるのです。
 
「陰」と「陽」は互いに干渉し合う。
私は、お陰様で幸運なことに、生まれつき「本能(欲望)」が弱い人間です。
しかし、(2)のタイプの人々の影響を受けて、
自分の人間観が(2)になっていた時代がずっとありました。
その価値観においては、他者を押さえつけてでも自身を強く主張できる人間が「正義」です。
当時の私の周りの女性も(2)のタイプに惹かれる人が多く、
(1)の価値観は、あり得ないんだなと思っていました。
しかし私は、様々な経験やブログでの考察を通じて、
また本来の(1)のタイプに戻ってきたのです。
 
「陰」と「陽」が「統合」することで、真の「成長」が訪れる。
「陰」と「陽」。
「テーゼ」と「アンチテーゼ」。
洋の東西を問わず、相反する二極が「統合」すると、
一つ上の次元に「成長」できるとされています。
そのためには、お互いに知り、お互いを「受け入れる」ことです。
しかし「陰」と「陽」の溝は深く、
実はこの「受け入れる」ということは、とても難しい。
 
しかし私は、今までの経験と考察から、これを乗り越える方法を一つ知っています。
それは、「信」。
相手を「信じる」ことです。
 
相手を「信じる」ということは、「自分が相手より上」と思っていたら成立しません。
相手も自身と同じ価値を持つ人間であることを知り、
そして、お互いの異質な部分を嫌悪せずに認め合うことが必要です。
そうした土台があって、初めて「信」が成立します。
 
「信じる」力は、奇跡を起こします。
例えば、必ず治ると強く「信じて」いると、
悪性腫瘍が良性腫瘍に変わったという話を聴いたことがありませんか?
 
「良心」に所在する人々と、「本能」に所在する人々が、乖離して久しい現代。
今必要とされるものは、2つの架け橋となる「信」だと考えます。
 
上記の仮説を基に、私は今後「信」の発信を強化します。
この実験がうまく成功すれば、私はより「人間的成長」ができる。
そうすれば、私は更に「幸せ」になれるはず。
 
理想論とかそんなんでなく、私は私自身のために、
「良心」と「本能」を「信」でつなぐ「道」を創っていきたいと思います。
この「道」の先がどうなっているのか、後日皆さんに報告したいと考える次第です。
 
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