「氏」か「育ち」か

「人」は、「なりたいもの」になるのか?
それとも、「なるべきもの」になるのか?
 
あなたは、どちら派ですか?
 
私は、どちらかと言うと、「人」は「なるべきもの」になると考えています。
桜は桜の花を咲かせ、タンポポタンポポの花を咲かせるように、
それぞれが咲かせるべき、その人だけの「花」があると私は思うのです。
 
人々は皆それぞれ、生まれ持った「才能」や育つ「環境」が異なります。
そして、その縛りから逃れられる人間は一人もいないのです。
 
例えば、私がどんなに願っても、
アラブの王様にはなれないし、オリンピックで金メダルを取ることも不可能でしょう。
 
そう、人間は皆、自分の中にあるものを活用して生きていくしか道はありません。
 
そして「才能」や「環境」には、プラスのものだけでなく、マイナスのものもあります。
生まれながらにして、「健康」に恵まれない人々だって存在するのです。
また、「愛情」に恵まれない家庭に育つ人々も多く存在します。
 
このような、自分の責任ではない、与えられた、絶対的な人間の「初期設定」を鑑みるに、
私は「人は努力すればなんとでもなる」という世間によく見られる論調に
警戒感を持つのです。
この論調は、自分よりも恵まれない「設定」に生まれた人々への理解を妨げます。
「オレができているんだから、あいつもできないとおかしい。
 あいつは努力をしていないんだ。」
そんな「与えられた者達」による身勝手な論調が、
恵まれない「設定」で生まれた人々の「心」を傷つけます。
例えば、愛情の欠乏した家庭環境に育った成功体験の少ない子ども達は、
愛情に恵まれた家庭環境に育った子ども達に比べて、「努力」は苦手です。
 
私は、「努力」自体を否定する気はありません。
「努力」は「人」の「成長」の大切な源泉です。
しかし、その「努力」は自分のための言葉だと思います。
大根の苗に対して、
「おまえは努力して将来メロンになれ」なんていう外野からの期待はナンセンスだし、
「甘い実をつけられないなんて努力が足りないな」という
外部のモノサシによる評価は的外れです。
 
「努力」の過度な賛美者には、
「運命」というものを否定する人も多いですが、
そもそも「生まれた時の設定」が既に濃密に「運命」だったりします。
その後、どう生きるかは「自由意思」も大きく介在するところでしょう。
しかし、この重要な「生まれた時の設定」を無視して人間を語ることはできません。
 
自分の生き方を決める時には、自分の「設定」を十分考慮することが大切です。
自分に与えられた「才能」「幸運な環境」、そして「ハンデ」。
これらの「意味」あるいは「伏線」を自分なりに捉えて、
「人生」という小説の結末である、将来の自分の結実した姿を決めていく。
例えば、子どもの時に地獄のような児童虐待を受けた方が、
大人になって、児童虐待から子ども達を護る活動をされています。
オリンピックの金メダリストもすごいですが、この方の子ども達を護る活動も、
負けず劣らず立派なお仕事だと私は思うのです。
そしてこのお仕事は、
児童虐待経験という「ハンデ」を持ったこの方にしかできない「役割」だと思います。
 
また、他者を評価する時にも、
相手には相手の「逃れられない設定」があることを理解することが重要です。
 
自分自身の評価を正当に行えていないと、他者の評価もうまくできません。
まずは、メロンになれない自分を責めるのを止め、
自分が何者なのか確認しましょう。大根ですか?チューリップですか?
そして、そういう視点を持つことができた時、
人は、自分にも優しくなれるし、他者にも優しくなれるのだと思います。
 
私は、メロンも大根もチューリップも雑草もみんな好きです。
この世界を苦しみながらも一生懸命生きている仲間ですから。
すべての命に、同じ価値を感じています。