「感謝」よりも「信頼」の方が、信用できる

私は、誰かに「感謝」することが好きです。
それは、自分が「幸せ」になれるから。
 
「感謝」とは、自身の「幸せ」な状況を再認識して噛み締める行為。
「ああ、○○さんが、××をしてくれて、自分は幸せだな」って思うこと。
 
だから、「感謝」している本人が「幸せ」でない「感謝」は、
本当の「感謝」ではない。
 
無理矢理言わされる「感謝」や、下心から来る「感謝」は、偽物の「感謝」。
 
偽物が存在する以上、人から発される「感謝」は、その真偽がわからないのです。
 
例えば、私自身も自分の発した「感謝」に対して、
「それを本心で言っているかどうかわからない」と、相手に言われたことがあります。
告白すれば、私自身も、「あ、この人は感謝されたがっているな」と感じる人には、
言葉だけの感謝をすることがあります。
 
そのくらい、世の中には偽物の「感謝」が溢れている訳です。
 
だから他者からの「感謝」というのは、本当は信用できない。
信用できるのは、自分の発する「感謝」だけでしょう。
 
もちろん、「感謝」の言葉を言ってくれたその「暖かな心」には、「感謝」します。
 
さて私は、「感謝」よりも信用できる、嘘偽りのない他者の反応を知っています。
それは、「信頼」です。
この言葉は、「心を開く」「頼られる」「なつかれる」といった概念を包括しています。
端的に言うならば、親が子どもに「愛情」を与えた際に、子どもが親に示す情動です。
 
子どもは、毎日毎日「感謝」の言葉を述べる訳ではありませんが、
親は、そのことをあまり気にしません。
「子ども」が、にこにこ親になつき、親に気を許し、親を頼ってくれれば、
それでいいのです。
 
私も、仕事等で誰かに「貢献」した時、「感謝」が欲しいとは思わない。
「信頼」が得られれば、それでいい。
 
頼ってくれたら嬉しいし、
話しかけた時に「笑顔」でいてくれたら、それだけで嬉しい。
 
「感謝」を求める生き方は苦しいと思います。
その「感謝」は本物か?と、疑ってたらきりがないです。
 
ですが、親子という根源的な人間関係において生じる「信頼」という情動に対しては、
嘘をついても、すぐに本能的に見破ることができます。
そもそも、「信頼」していない相手に対して、心を開くことってできないはずです。
 
さて、昔懐かしの「究極の選択」をあなたにしたいと思います。
 
「感謝」なき「信頼」と、「信頼」なき「感謝」、
あなたは他者からもらえるとしたらどちらを選びますか?
 
どうでしょうか?
私は、全ての人が「感謝」なき「信頼」を選ぶと思っています。
その事実こそが、
「感謝」と「信頼」のどちらが重要なのかを明確に指し示している訳です。