「幸せ」は「愛」と「信」から

最近のお気に入りの「幸せ」キーワードは、「信」。
 
世間で重視されがちな「幸せ」キーワード「愛」と陰陽の間柄です。
「愛」が「陽」、「信」が「陰」となります。
 
「陽」は「与え」。
「愛」とは、他者に「心」を与える行為です。
 
「陰」は「受け」
「信」とは、他者からの「心」を受け取る行為です。
 
この分類で考えると、「感謝」と「信」は似ているけど違うことがわかります。
「感謝」は「与え」だからです。
例えば、相手からの「感謝」がないと不満に思ったことはありませんか?
あるいは、「感謝の言葉がない」と相手から憤慨されたことはありませんか?
これらは、「感謝」が与える「愛」の一つであることの証左です。
 
一方、「信」は相手からの「愛」を受け止める行為。
例えば「感謝」という「愛」を頂いたら、
「心」からよかったと思ってにっこりすることが「信」となります。
 
私は、人から「感謝」を頂くと、
「そんなたいしたことしてないのに、すみません」と恐縮してしまいます。
ここに、「信」はありません。
恐縮するということは、相手が「感謝」していることを疑っているのです。
失礼なことに相手の「感謝」を額面通りに受け取らず、
「気を遣わせてしまって、(ある意味)おべっかを言って頂いた」という心理が
どうやら働いてしまっているように感じます。
どれだけ人を信じていないんだ、という話です。
 
そこで最近、「感謝」の言葉を頂いた時の反応を変えるようにしました。
 
「よかったです」
 
発してもらった「感謝」という「愛」を、額面通りに受け取る。
相手の言葉を信じて、自分がそれだけの「価値」を提供できたのだと認識する。
 
まだぎこちないですが、そのうち最高の「笑顔」で「よかったです」と言いたいものです。
 
 
ところで最近は、「話し上手」より「聴き上手」であることが大切という風潮があります。
この2つも「愛」と「信」の区分で整理するならば、
相手の立場に立って相手の「心」を動かせる「話し上手」が「愛」であり、
相手が自分に発する言葉を「笑顔」で気持ちよく受け止める「聴き上手」が「信」です。
そう考えると、
社会も少しずつ「信」の重要性に気づき始めたように感じます。
 
自慢じゃないですが、私は「聴き上手」です。
どんな相手でも信じて、「笑顔」で相手の言葉を真剣に聴き取ります。
 
さて、自称「聴き上手」の私から言わせると、
「聴き上手」とは「技術」ではなく「心のあり方」です。
相手が「言葉」に乗せて伝えたい想いを、
「傲慢」や「悪意」のフィルターをかけずに「心」で受け止める。
相手が「すごいだろ」って想いを乗せて言葉を発したら、その額面通りに相手を尊敬する。
相手がグチを言ったら、その額面通りに相手の「苦しみ」を想い「心」を痛める。
 
このように「心」が「素直」な状態でないと、「聴き上手」にはなれません。
技術でどうこうしようとしても、話している相手は必ず感づくものです。
 
相手の「心」を受け止める「聴き上手」は、「敵」を作りません。
「敵」という存在は「幸せ」を阻害する最も大きな要因の一つです。
私にもかつて「敵」がいましたが、
「敵」のことを考えるだけで「心」がザワザワと「不幸」な状態になりました。
「聴き上手」すなわち「信」は、大きな「幸せ」の源泉でもあるのです。
 
偉そうなことを言っている私ですが、
下らない相手や嫌な相手の言葉を「信」じて、
笑顔で相づちを打つのは「負け」であると考えていた時期が私にもありました。
しかし、それをしたとして、どんな実害があるというのでしょうか?
単に「傲慢」なプライドが傷つくだけではありませんか?
 
どんな相手に対しても「信」の「心」で接するということは、
むしろ自身の「傲慢」という「欲」に対する「勝利」であるのです。
 
 
「欲」を制すれば「幸せ」が見えてきます。
長い間「幸せ」を考察して、私は今「信」にたどり着きました。