「哲学」は必要か?そして「道徳」は必要か?

先日、「哲学は必要なのか?」というテーマのネット記事を読みました。
そこでは、様々な意見が出ていたのですが、
「哲学を知っていても現実社会では役に立たない」という意見が多かったです。
 
さて、日頃から「哲学」の重要性を唱えている私ですが、
ここで改めて「哲学」がどう私たちに必要なのか考えたいと思います。
 
「哲学」を身につけると、私たちの何かが変わるのでしょうか?
それとも何も変わらずに、役に立たない「知識」が増えるだけなのでしょうか?
 
まずは、海外の事例を紹介したいと思います。
フランスの高校3年生は、文系で週8時間、理系で週4時間、「哲学」の講義があるそうです。
そして、大学進学の際に試験として「哲学」の筆記試験があるとのこと。
 
なぜフランスでは、社会に出る前に「哲学」を学ぶのかというと、
一人の大人として、既存の価値観に囚われずに、
自由で自主的に判断できるスキルを身につけるためなのだそうです。
なるほど、フランスでは、
「体」だけでなく「精神」の面でも本当の「大人」になるために
「哲学」を学んでいるのだなぁと思いました。
 
さすが、フランス革命のフランスです。
そう言えば、現在日本の与党を担っている政党を支援している宗教団体が、
フランスでカルト指定されていたと聴いたことがあります。
フランス人の目には、
新興宗教が幅を利かせている現代の日本社会はどのように映るのでしょうかね。
 
また、日本社会には「B層」という言葉があります。
ウィキペディアは、こちら
郵政改革の際に小泉内閣から宣伝企画を受注した広告会社が、
日本人を「構造改革に賛成か?反対か?」「IQが高いか?低いか?」の2軸に分け、
この中で構造改革に肯定的でIQが低い層を「B層」と定義したことが言葉の始まりです。
「B層」は、マスコミ報道に流されやすい人達だとされています。
そしてこの広告会社の企画書の趣旨は、「B層」をうまく操るべきというものでした。
 
結局、クレバーな人々が、そうでない大勢の人々を操ってきたのが、
戦後日本の一つの側面だったのかもしれません。
まあ、クレバーな人々が、
皆の幸福度を上昇させるような「正しい」判断をしてくれるのなら、問題はないのですけど。
むしろ「欲」や「感情」に支配されているような人々が、
日本の「社会」を支配する側になろうと、
必死に「努力」しているのが現状の日本の構図だと思われます。
 
ところで、上記広告会社の「B層」の分析には、私は否定的です。
自分にとっての「真実」を見る力は、
IQのような「能力」に依存するものではなく、
常に周りの事象に対して自分の考えを持とうとする「心」の「姿勢」にあると、
私は考えます。
つまり、「周りはこう言っている」一方「自分の考えはこうだ」と、
「心」の中で常に対話を行う癖を身につけさえすれば、
この広告会社に「ちょろい」と思われずに済むという訳です。
 
誤解がありそうなので描きますが、上記の姿勢は「疑う姿勢」とは違います。
そうではなくて、
「周り」と「自分」という価値観の線引きをしっかりと持つということなのです。
「周り」の「価値観」に自分の「城」が容易に攻め込まれないように、
しっかりと堀を作りましょう。
そして自身の「価値観」をしっかりと築いた上で、
相手を「信」じてあげることができれば、なおよろしい。
敵対の緊張関係は解消され、相手も自分も「幸せ」になることができます。
 
さて、上記の「周りはこうだけど、自分はこう考えている」という
「心」の「姿勢」の取り方がまさに「哲学」なのだと、私は考えます。
 
 哲学とは「心」の「城」です。
 
日本は、今戦国時代ではありませんが、
マスコミやネットを介し、日々熾烈な「価値観」の国盗り合戦が繰り広げられています。
城主は、日本人一人ひとりです。
日本中の多くの「城」は、容易に攻め落とされる状態にあります。
隆盛を極める時代時代のイデオロギーに、
各人の「城」は、相手の素性を「吟味」する間もなくあっさりと攻め込まれてしまうのです。
 
さて、ここで「吟味」すべきは何だと思いますか?
『自身や家族や社会の「幸せ」にどの程度影響があるか?』という一点に尽きると、
私は考える次第です。
この観点は実にシンプルであり、根源的で大切なことであります。
 
しかし「幸せ」とは何か?ということになると、途端に話がややこしくなるのも事実。
そこで、ここでもやはり「哲学」が活躍します。
そう、自身にとっての「幸せ」を導き出そうとする試みも「哲学」なのです。
 
さて、まとめに入ります。
「哲学」とは、自身の「心」の「城」を構築する手段です。
周りの「価値観」から自身の「価値観」を線引きするために「堀」を作り、
そして護るべき自身の「幸せ」を見つけ出して、自身の「心」の「天守閣」に納める。
 
「哲学」を行わないということは、道ばたに自分の財布を放置しているようなものです。
そして、実際には財布なんかよりもっと大切なものを放置しています。
自分にとって最も大切な「幸せ」が、盗まれ放題の状態になっている訳ですね。
 
という訳で、人が「幸せ」に生きる上で「哲学」は絶対に必要であると私は考えます。
そして、この論考からは当然の流れとなりますが、
日本で学生達に学ばせようとしている「道徳」のあり方には、懐疑的です。
まず「哲学」を身につけてから、
国のオススメの価値観である「道徳」を学んだ方が、
より「心」で「道徳」を「消化」できるようになると思うんですがね・・・