【哲学】なぜ、人を殺してはいけないのか?(その1)

今日は、「哲学」の話です。
 
ずばり、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」ということを考えたいと思います。
 
まず大前提として考えたいことは、皆に共通する答えはないということです。
現時点で、人によって様々な価値観があるはずだと思います。
例えば、「法律で罰せられるから」という理由だけで、
人を殺さないと考える人もいるかもしれない。
「いやいや、もっと深い答えがあるよ」という人もいるでしょう。
 
答えは、人それぞれ。
科学のように、客観的に証明できる話ではないのだから、
各人が考察して答えを得なければならない。
だからこそ、法律で「人」の定義を明確にしないと話が進まない訳です。
どんな偉い人の答えであっても、自分の答えにはなり得ない。
 
「哲学」は数学のように答えが毎回一致する学問ではないので、
大事な意味は「結果」ではなく、自分だけの答えを見つけ出す「過程」にあります。
 
「過程」とは何か?
それは、単に「考察」の道筋だけではありません。
その人の生まれてからの「人生」そのものが、答えを出す「過程」なのです。
もっと言えば、その人が持って生まれた「何か」、
あるいは、その人自身が「何者なのか」というということも。
 
さて、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という話に戻りたいと思います。
 
この質問の、論点は2つです。
一つは、「人」とは何か?ということ。
それから、「殺す」とは何か?ということ。
 
それでは、まず「人とは何か?」について考えていきましょう。
ここで確定させたいことは、「人」の範囲です。
あるところに、「人」を殺すことはダメだけど、死刑は許容するAさんがいたとします。
Aさんにとって「人」の範囲に、
自分の理解を超えるような凶悪な犯罪を犯した者は含まれていない訳です。
すなわち、その「振る舞い」が極めて凶悪かつ異質であり、
そこから類推される「心」の中身も、
とても自分と同じ「心」があるとは思えないという場合。
Aさんは、死刑囚が法によって殺されることを当然と考える。
しかし、そんなAさんも、
遠い異国の地で戦争により無残に殺された家族の話を聴くと、
「そんなことは許されない」と憤りを感じます。
 
Aさんにとって、「人」とは、ホモ・サピエンスという生物の種としての人間ではなく、
自身の「心」と同じあるいは通じる「心」を持った存在なのです。
 
私は、「人を殺してはいけない」というタブーには、
「共感」が大きく関与していると感じています。
「共感」とは、ほ乳類や鳥類に与えられた能力。
他者の「痛み」や「喜び」を、自分の「痛み」や「喜び」として感じる能力です。
そう考えていくと、「共感」できないほど「心」が異質と推測される相手には、
「殺してはいけない」というタブーも発生しないかもしれません。
 
もし「心」の「共感」を、「人」の要件と捉えるならば、
法律で規制されていなくても、
「殺してはいけない」というタブーが成り立つ存在もいるでしょう。
例えば、親子熊が人里に現れて、
猟友会に射殺されるというニュースがたまに流れます。
こういったニュースには、熊の危険性を十分に理解しながらも、
同情の念を抱く人も多い。
それは、親子という「心」の繋がりを、自分達も持った経験があるから。
親子という繋がりの下に一緒に行動していたこの熊達に、
自分達の「心」と同質の「心」があるように感じたから、
自分達も悲しい気持ちになるのです。
 
もっと、わかりやすい例をあげましょうか?
法律では、人と定義されていない「宇宙人」が地球に来たとします。
この「宇宙人」が、映画「スターウォーズ」に登場するような
主人公と一緒に戦ってくれる人型の宇宙人であった場合、
この宇宙人達に対しても、自然に「殺してはいけない」というタブーを感じるはずです。
もしこのタブーを感じていない人がいたら、
スターウォーズ」や「アバター」という映画は楽しめないと思います(笑)
 
私たちの価値観の中で捉える「人」とは「種族」や「遺伝子」に関係なく、
「心」が通じるかどうかで判断されているように、私は思う訳です。
 
さて、ここのところを掘り下げていくと、
「中絶」や「ダウン症児の産み分け」や
脳死の患者からの臓器移植」や「捕鯨反対」という様々な問題にも、
自分なりの「答え」を見つけられそうですね。
あなたは、これらの問題に、今どのような答えを出せそうですか?
 
さて、「人」の範囲については、何となくこんなものかなという答えが出ました。
次に、「殺す」とは何かということを考える必要があります。
実は「殺す」もしくは「死」というのも、
科学的にはどういう現象なのか明確にはなっていないのです。
だから法律では、多くの学者が様々な意見をもちより「死」を定義しています。
脳死」を「死」とみなすかどうか、
学者が集まり議論をした風景がニュースになったことを
記憶している人も多いのではないでしょうか。
 
だから、本当は「死」という概念にも、人によって様々な見解があります。
「死後の世界」を信じている人達にとって、「殺す」とはどのような意味なのか?
「死後は無になる」と信じている人達にとって、「殺す」とはどのような意味なのか?
 
それから、「この世界にいる」ということの「価値」をどのように捉えるか?
「生まれてきた」意味をどのように捉えるのか?
「生きる」というのは、どのようなことなのか?
 
「殺す」ということの意味は、
これらのことを総合的に考えないと見出すことができないと思います。
「殺す」とは、単に「殺す」際に与える「苦痛」のみが意味ではないのです。
「生きる」ことの「価値」や「意味」を奪うという行為という側面もあります。
また「殺した」後、相手は「無」になるのか?それとも、どこかの「世界」に移るのか?
 
・・・う〜ん、「殺す」という概念を考えるということは、結構困難な作業ですね。
結構長文になってきましたので、続きは次回に回したいと思います。
こういう根源的な問いを自分で考えていくと、
生きる上で何か大きな気づきが出てきそうです。
次回も、頑張りたいと思います。