【哲学】なぜ、人を殺してはいけないのか?(その2)

今回は、前回の続きの哲学のお話をしたいと思います。
お題は、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」
 
前回は、「人」の定義をしました。
私たちが「殺すこと」にタブーを覚える「人」とは、
厳密には「ホモ・サピエンス」という種族としての人間ではなく、
自身の「心」が独自に「人」として認識している範囲がありそうです。
 
それは、「心」が「共感」できる範囲であるということ。
他者の「痛み」を、自身の「痛み」として想像できる範囲ということです。
例えば、「殺すこと」に忌避を感じている人であっても、
自身の「心」とは異質であり同じ「心」を持っていると感じられないような
凶悪犯に対しては「死刑」を容認する人は少なくないかもしれません。
逆に「ホモ・サピエンス」ではない生き物が殺されることに対しても「悲しみ」を覚えるのは、
それはその存在を「心」の通じる「共感」可能な
「人」と同義の存在と認識したからだと考える次第です。
 
このように前回は、「人」の定義まですることができたのですが、
次に「殺す」とは何かということを考えるところで、考察が立ち往生してしまいました。
 
しかし、朝早く起きているこのタイミングは、脳の創造性が活発な時間帯です。
何とか、うまく定義ができそうに感じています。
 
さてじゃあ、いきましょう。
「なぜ、人を殺してはいけないのか?」
 
このタブーにおける「人」の定義ができたことで、「殺す」の定義も決まってきます。
すなわち、そのタブーを考える人自身が「死」をどのように感じているのか?によって、
「殺す」ということの定義が変わってくるのです。
このタブーにおける「殺す」とは、
「心」の「痛み」を「共感」できる対象(=「人」)に、「死」を与えるということ。
 
例えば虫などの「共感」できない対象を「殺す」場合は、
相手の「心」が「死」を味わっていることを想像することはしません。
しかし、このタブーを感じるような「心」が「共感」できる相手となると話は別です。
相手が「死」を味わうという最大限の「苦しみ」を感じることに、
「心」のアンテナの波長が一致して、自分も「死」の「苦しみ」を「共感」してしまいます。
 
だから、私たちは法律がなくとも、宗教に教えられるまでもなく、
「人を殺してはいけない」と「心」が実感しているのです。
 
例えば、現在の私にとって「死」とは何でしょうか?
これによって、私の中の「殺す」ことの定義ができると思います。
 
私にとって「死」とは、「未知なるもの」です。
確かに、「死後の世界」を少し予感はしていますが、確固たる確信がある訳ではありません。
例えるなら、紐なしのバンジージャンプです。
そんなものは普通やりませんが、そのバンジージャンプはなぜか大手の遊園地にあり、
遊園地の説明によれば「何かしらの科学技術」によってフワッと地面に着地できるとのこと。
 
大手の遊園地が言うなら飛び降りた結果は実際にそうかもしれませんが、
「じゃあ」と言って飛び込む勇気のある方はそうそういないでしょう。
 
「死」とは「未知」であり、人にとって最大の「不確実性」です。
そして確実にわかっていることは、
「死」に至る途中には最大限の「苦しみ」が待っているということ。
 
そうであるならば、
「死」は、私たちがこの世界で感じる中で最大レベルの「苦しみ」と言えます。
その最大レベルの「苦しみ」を、「共感」できる「心」の通じる対象に与えることが、
「殺す」という行為なのです。
 
このように考えていくと、「社会学」的にも「共感」は重要な要素であるように感じます。
ある「社会」に「共感」がどの程度浸透しているのか?
これは、「社会」の成熟度を測る指標として使えると思うのです。
 
例えば、今の日本社会と、30年前の日本社会。
どちらが、より「共感」を有する時代だったでしょうか?
 
例えば、現在進行形で少数民族を弾圧している国家。
この国家における「共感」は、何らかの要素で阻害されてはいないか?
現地で実際に少数民族弾圧を行っている人々に、
「共感」を起こさせることは不可能なのか?
戦争の状態よりも「共感」は起こりやすいはずです。
なぜなら、弾圧の相手は、他の人と同様に普通に家族を持ち生活をしている人々だから。
普通に生活をしている人達に「共感」をするのは、
そんなに困難だとは思わないんですけどね。
 
可能なら、一度聴いてみたい。
弾圧をしている人に。
どのようにして「共感」を感じていないのか?
 
「共感」は人類の未来への「鍵」になると、私は考えます。
人々の「共感」の「心」を目覚めさせるにはどうしたらよいか?
ちょっと真剣に考えていみたいですね。