「種」「破」「離」

守破離(しゅはり)」という言葉があります。
ウィキペディアによりますと、
日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方を示す言葉です。
 
まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まり、
その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、
自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。
最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、
自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、
型から「離れ」て自在になることができる。
 
日本では、この「守破離」という思想が、
「道」と呼ばれる文化発展の創造的な過程のベースとなっています。
この思想のお陰で、
日本は伝統に縛られずに新しいものを貪欲に取り入れることができる一方で、
日本独自の文化を維持・発展させるという器用なことができた訳です。
 
この「守破離」、2つのポイントがあると思います。
(1)まずは「型」を習得するまでは、ある意味「自分」を殺して頑張るということ
(2)しかし「模倣」ではダメで、「自分」を取り込まねば「道」が完成しないということ

さて、この考え方は、
「人生」という「道」にも応用できるのではないかと考えました。
 
「人生」という「道」を完成させるには、まず「生き方」を習得しなければならない。
茶道や武道のように師範がいる訳ではありませんが、
人は生まれたその時から「縁」により育てられます。
「良縁」もあれば「悪縁」もあるでしょう。
そのような「運命」とも言うべき「縁」にもまれて、
人は「生き方」をそして「自分」を見出していきます。
注意すべき点は、「悪縁」であっても師範になるということです。
私もかつての「悪縁」があり、今の「優しさ」を持てていると感じています。
ある意味、かつて体験した「いじめ」がなかったら今の私はいない訳です。
「縁」とは、「良縁」であれ「悪縁」であれ、
まだ「自分」というものを持てていない、人の未熟な時期に、
「自分」を形成する「種」に該当するような存在なのだと私は考えます。
 
例えば、生まれたその時から「自分」を知っている人なんていない訳です。
私の考えでは、「欲」や「本能」は「自分」と同居する「他者」に過ぎません。
本当の「自分」とは、「価値観」であり「良心」であり「使命」なのです。
 
この本当の「自分」が「発芽」するために、
人は、与えられた「縁」という「種」の中ですごさなければならない。
先にも描いたように、「縁」は「良縁」だけではありません。
むしろ段々成長していくと、「悪縁」の割合が多くなってくるのです。
 
そういった「悪縁」による「苦しみ」にも、耐え、もがき、時には逃げ出して、
そうやっていつしか「自分」という「芽」が「種」を破って発芽します。
 
ところで、「自分探しの旅」というものがありますが、
これも、異文化・異環境の海外に、「自分」を刺激する強烈な「縁」を求める行為です。
そのように考えると「自分探しの旅」というのは、合理的なのかもしれません。
ただし行くからには、
ボランティア活動のように現地の人と触れあうことを目的とした方が効果的であり、
更に言えば「日本」とは真逆の環境(貧困、危険)の方が、
自身を揺さぶる「縁」を持てるのかもしれないなと思う次第です。
 
私は、「人生」の「意味」を、「自分」の「花」を咲かせることだと考えています。
「花」を咲かせるためには、まず「種」を破って発芽をしないといけない。
発芽する状態の時には、
「自分」を知り「自分」の与えられた武器(「才能」)を知っている必要があります。
そうして、「種」を離れて、自分だけの「花」を咲かせる。
ここで、自分の「人生」という「道」は完成されます。
 
そして、「花」は多くの他者に影響を与える「縁」という「種」を生み出します。
私たちが何気なく道を歩いていても、
雑草の「葉っぱ」には目をくれなくても、「花」には無意識に目が行くでしょう?
そう「花」は、多くの人に「縁」を与えることができます。それも「良縁」を。
 
「種」の中に籠もったまま「悪縁」という毒を他者に撒き散らす存在は確かにいますが、
「花」には、それを上回って多くの人に「良縁」を与える効果があります。
 
例えば、「人生」の上でとてもとても大きな「花」を咲かせた人達。
ナイチンゲールは彼女の死後100年を超えた今も、
ナースを目指す人々に「良縁」を与え、健全な芽を生み出すための「種」を形成しています。
松下幸之助さんや本田宗一郎さんの言葉は、
コンビニで書籍が売られるぐらい多くの人の「種」となってるのです。
 
日本の文化は、「守破離」の精神によって、
よい文化を連綿と引き継ぎ、
そして自分を「道」に組み込むことで、
その時代時代に即した活力の息吹を吹き込んできました。
 
人の「人生」においても、
過去から連綿と連鎖する自身の「運命」としての「縁」を背負い引き継ぎ、
その上で、そこに「自分」という新たな息吹を吹き込むことで、
涙が出るくらい感動する美しい「人生」を完成できるのかなと思う次第です。
 
光合成だけで美しい「花」を咲かせられる植物はありません。
様々な「縁」を背負ってこそ、
その環境にあるべき美しい「花」を咲かせることができるのだと思うのです。