「苦しみ」とは、何なのか?

日々「幸せ」について考えている私ですが、
実際の私の「心」はいつも「幸せ」という訳ではありません。
それどころか、容赦のない「現実世界」を前に「不幸せ」な状態が多いです。
 
せっかく「幸せ」についてずっと「考察」を続けているのですから、
そろそろ、その「考察」結果を実践に当てはめていきたいと思います。
 
そもそも「幸せ」とは、どのような状態なのでしょうか?
 
「幸せ」とは、外部の「現実世界」の状況を指す言葉ではなく、
内部の「心」の状態を指す言葉なのだと、私は考えています。
それは、すなわち(1)「心」に「苦しみ」がない状態。
それから、(2)「心」に「喜び」がある状態です。
まずは(1)について、見ていきたいと思います。
 
(1)「心」に「苦しみ」がない状態
さて「心」に「苦しみ」がない状態とは、どのような状態なのか?
まず考えなくてはならないのは、「苦しみ」の発生源です。
「苦しみ」は全て外部からやってくる。私は、そう考えています。
 
ちなみにキリスト教では、
「苦しみ」の原因はその人の存在自体に「原罪」という形で内在されると説明しています。
また、カースト制度で有名なヒンズー教では、
前世からの悪い行いの蓄積(カルマ)が、
今の自分の「苦しみ」の原因となっていると考えるようです。
 
こういった考え方をしていては、「苦しみ」は苦しむために用意されたものであり、
人々はただただ「苦しみ」に身を委ね、もだえ続けるしかないということになってしまいます。
 
一方、カースト制度を強く否定したブッダは、
人はなぜ「苦しみ」から逃れられないのかという問いについて、
異なるアプローチを採っているのです。
すなわち、「苦」は人間への「罰」なのではなく、人間の「外敵」なのだと。
「外敵」だったら容赦することはありませんね。
「苦」を、人間の「知恵」で滅してやればよいのです。
このように、ブッダが悟った「苦」を滅する「知恵」を「仏教」と呼びます。
 
さて仏教では、どのように「苦」を滅すると説いているのでしょうか?
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の境地を目指せば、
「苦」から開放されると説明されています。
涅槃寂静」とは、「煩悩」が消滅した静かで安らかな境地なのだそうです。
私たちの「心」から「欲望」を「外敵」としてうまく取り除くことができれば、
「苦しみ」を滅することができるかもしれません。
 
是非実践してみて、「幸せ」になりたいものです。
「煩悩」だと数が108個もあって大変なので、
まずは、キリスト教の「7つの大罪」の欲望を克服したいと思います。
すなわち、「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」です。
 
それぞれについて、具体的に「考察」し、実際の「行動」に落とし込んでいきます。
この7つを攻略すれば、「苦しみ」から「心」が開放されるはず。
 
さて、次回のブログからは、それぞれの「欲望」への対処法を「考察」し、
「行動」に落とし込むところを描いていきたいと思います。
 
そろそろ、本気で「幸せ」を取りにいきます。