「人生」とは、ズバリ何なのか?

「人生」とは、ズバリ何なのか?
今日は、そこのところについて、私の考えていることを整理したいと思います。
 
初めに「人生」ありき。
 
私達は、気づいたらこの「世界」に「存在」していました。
この「世界」に「生まれたい」という「意思」の下に生まれたのでもなく、
この「世界」に「生まれたこと」に対する事前説明もなく、
私達は気づいたら「存在」していたのです。
 
そして「理不尽」なことに、
何の説明もなく連れてこられたこの「世界」では多くの「苦しみ」が待ち受けています。
 
初めに「人生」ありき。
「人生」は「苦しみ」と共にありき。
 
もちろん「苦しみ」以外のものも、この「世界」には存在しますが、
「生きる意味」も「生きる目的」も事前説明されていない我々は、
まずは「生きる」ことの注意対象を、この「苦しみ」に設定せざるを得ません。
生まれたその時から、我々の「苦しみ」回避は始まるのです。
 
初めに「人生」ありき。
「人生」は「苦しみ」と共にありき。
「人生」は「苦しみ」であった。
 
以前、ブログでご紹介した手話を話すゴリラのココ。
人間と手話で意思疎通できる彼女は、「死」についてこんなことを言っていました。
 
 「苦労のない 穴に さようなら。」
 
この言葉から察するに、人間よりも直感で「死」や「生」を理解している野生動物は、
「人生」の「本質」を「苦しみ」と見ているようです。
 
 
何もかもが不明な「世界」に一つだけ確かなことがあります。
それは、この「世界」には「苦しみ」という忌避すべき対象が存在するということ。
そうであるならば、「生きる」意味は自ずと決まってきます。
それは、「苦しみ」という「負のエネルギー」の対極を求めること。
すなわち、「幸せ」を求めることことこそが、
この「世界」に「生きる」ことの「意味」なのです。
 
話が長くなりましたが、ここから導き出される「人生」の大前提とは、
「人生」の「本質」は「苦しみ」であり、
「人生」の「意味」もしくは「目的」は「幸せ」であるということです。
 
では、どのように「幸せ」を得るのか?
そのためには、2つのものが必要となります。
それは、「考察」と「エネルギー」です。
 
「考察」とは、ブッダのように「苦しみ」と向き合い、
「苦しみ」の本質を見抜き、「苦しみ」を消す方法を模索することです。
ブッダは、「苦しみ」の源泉を己の中に見出しました。
それが「煩悩」であり、「マーラ」と呼ばれる「蛇」なのです。
私の「考察」では、「苦しみ」の源泉は「遺伝子」という「蛇」なのだと思っています。
 
「遺伝子」こそが、「本能」や「欲望」の源泉なのです。
さて、ここからは私の妄想になります。
「遺伝子」と対になるものが、「生命」です。
「本能」や「欲望」を司る「遺伝子」に対して、
「生命」は「良心」や「慈悲」の所在となります。
なぜならば、元々「生命」は普遍的に存在する大きな「海」のような一つのものであり、
「遺伝子」というコップによって囚われたある「生命」が、
他の「遺伝子」に囚われた別の「生命」に「共感」することは
至極当たり前のことだからです。
そして「共感」は、「良心」や「慈悲」への大いなる源泉となります。
 
考えてみて下さい。
「良心」や「慈悲」が、道ばたに転がっている「石」に向けられることがありますか?
ないですよね?
「良心」や「慈悲」というものは、あくまで他の「生命」に向けられるものなのです。
 
そういう訳ですので、
「人生」の「意味」や「目的」が「幸せ」である時に、
私達は「幸せ」のことをよく「考察」しないといけない。
 
「考察」して「幸せ」への「仮説」が立てば、次は生きる「エネルギー」です。
実は私は、この「エネルギー」に対して、大きな勘違いをしていました。
最初は、「考察」さえしっかりとしておけば、
「幸せ」を手に入れられると考えていたのです。
 
しかし、前回のブログでも言及していますが、
「幸せ」になるためには「生きる」「エネルギー」が必要であることに気づきました。
この「エネルギー」を確保できないと、
「人生」は「怠惰」に飲まれ「苦しみ」の底に沈んでしまうと考える次第です。
 
話が長くなってきましたので、
この「エネルギー」については次回のブログでしっかりと説明します。
 
さて、今回の結論は、
我々の生きる「意味」や「目的」が「幸せ」を得ることだと言うことです。
「人」や「生命」は皆「幸せ」実現のために生き、
「幸せ」に至る道筋の中に、何か途方もない「宝」が隠されている。
そんな風に、私は考えているのです。