何に「執着」するべきか

「執着」とは、人や状況やモノにしがみついて放さない状況です。
「自己評価」が低い時に起こります。
全ての「執着」は、「怖れ」から生じるのだそうです。
「自己評価」が低い場合、自分の未来にも自身が持てず、
すがるべき何かに囚われ、「心」の余裕のない言動をしてしまいます。
(上記は、Counseling Serviceというサイトを拝見して描きました)
 
私は、メチャクチャ「自己評価」の低い人間です。
「自己評価」がメチャクチャ低いから、
他者に対して無根拠に、自分が劣等な人間であるとの思いを持ってしまい、
他者を優先し、自分自身を傷つけることも多くやってきました。
それは、小さい頃からの「心」のクセなのです。
子どもの頃、他者とのコミュニケーションが苦手だったことが原因だと思います。
 
この「執着」という言葉。
元々知っている言葉だったので、他者の「執着」はよく見えていました。
 あの人は、ここに「執着」しているな。
 この人は、これに「執着」して辛そうだな。
そういった様々な他者を見て、
私の感想は「やはり執着していると幸せになれないな」ということです。
「執着」は、他者と自分を縛り、他者と自分を鋭く傷つけます。
 
しかし「自分」の「執着」については、今まで考えることがありませんでした。
私は、お金等のモノにも興味がないし、他者を制約する気もさらさらなく、
他者の「幸せ」を「心」から願える人間だと思っていましたから。
 
だけど「執着」が、「自己評価」の低さから来るのであれば、
私はきっと何かすごい「執着」に囚われているかもしれないのです。
 
思いを巡らせてみたのですが、一つものすごい大きな「執着」を見つけました。
それは、そのままズバリ「自分を徹底的に価値のない人間として見よう」という「執着」です。
 
「執着」が他に行かない分、この「執着」はものすごく強大に私を締め付けています。
そして、自分が至らないと実感するような事象に出会うと、
グサグサと自らの「心」を刃物でメッタ差しにしているのです。
「執着」があると、「幸せ」になれないと描きましたが、
こんなモンスターのような直接自分を攻撃する「執着」を持っていれば、
そりゃあ「幸せ」になれません。
 
私は、「命」はどんな人であれ同価値であるという価値観を持っています。
だから、他者が他者をいじめるようなことには腹を立てます。
誰かが誰かを低い価値の人間だと話すことにも、あまり肯定はしません。
 
ただ、この同価値の素敵な「命」が自分にもあることを忘れていたようです。
他者が我を通せば、自己否定「執着」により、
他者の尻馬に乗って自分を痛めつけ始めます。
自分が犠牲になることが「当たり前」と考え、自分が苦しむことを「黙認」します。
 
他の人が傷つくことには敏感で、
弱者が苦しむようなことには「心」の底から腹を立てるのに、
なのに、自分が傷つくことには「世界とはそういうものだ」と、
「命」が傷つくことを「承認」してしまっている。
 
よくよく自分の「心」を覗いて見たら、「自傷」で血まみれでした(笑)。
 
今までのブログでもそうでしたが、
私はこれからも「命」と「心」を尊重することに「執着」しようと思っています。
私の考えでは、全ての「命」や「心」は一体であるからです。
 
そして今日から、その尊重する対象には、
私の「命」「人生」「心」も加えようと思っています。