「闘う」」

私は今、大きな「理不尽」にさらされようとしています。
 
私は子どもの頃から、
「感情」によって「人」を傷つけることに愉悦を覚える人々が嫌いでした。
 
中学生の頃には、
クラスで起きていた「いじめ」に対し、
帰りの会」の場で、「いけないことだと思います」と先生に話した時、
私はクラスで孤立しました。
 
私が最初に入った会社で「いじめ」にあった時、
火に油を注いだのが、
「感情」で「人」を傷つけることを「当然」と考えている人々への反発です。
しかし、この時は「理不尽」に負けました。自殺を考えるほどボロボロになるまで。
私は、この時「心」に深い深い挫折を覚えたのです。
 
「感情」で「人」を傷つけることは、間違っていることだと今でも信じています。
しかし、この「世界」では、
それに立ち向かうことが「大きな代償」を生む事を知りました。
 
それでも、私は「理不尽」によって苦しんでいる人々の助けになりたいと願い、
金銭的な援助も含めて、細々と支援をしています。
 
私は「理不尽」が大嫌いです。
どんな人でも、皆「一生懸命」生きています。
一日、一週間、一ヶ月、一年、十年、・・・
「人」は、長い長い毎日を「一生懸命」生きています。
「一生懸命」は、「努力」とはまた別の概念です。
「努力」しようがしまいが、「人」や「生命」は、
この「世界」で「苦しみ」に耐えながら生きているのです。
むしろ「努力」できる人達よりも「努力」できない人達の方が、
「苦しみ」は半端ないでしょうね。
 
だから、
「感情」に支配された人が、他者を傷つけることを当然と考えていることに腹が立ちます。
それは、その人のそれまでの「一生懸命」を踏みにじっているのです。
ですので私は「他者」が傷つけられることには腹を立て、人と対立することもしてきました。
 
しかし、自分が傷つけられることには、無自覚になってしまっていたのです。
もちろん、「理不尽」に傷つけられれば「痛み」を感じます。
ですが生きている中で「優しさ」がある程度「理不尽」を回避する力を持っていることを知り、
自分への「理不尽」を甘受してきたのです。
自分の「心」の「叫び」を無視することを、「優しさ」と勘違いしていました。
 
しかし、それでは本当の解決にはなっていなかった。
 
私は今、大きな「理不尽」にさらされようとしています。
この「理不尽」を甘受しては、私の「人生」が壊されてしまうでしょう。
 
私は、変わらなければならない。
よく考えたら、私だって「一生懸命」生きているのです。
それを、「感情」によって傷つける存在が現れたのなら、闘わなければならない。
 
大切なことは、「心」で決める。
この「理不尽」に立ち向かわなければ、
今まで「一生懸命」生きてきた私の「心」が泣きます。
 
私を奮い立たせるのは、これまでの「理不尽」への大いなる「怒り」。
ここで闘わなければ、私は一生変われない。
 
「一生懸命」生きてきた自分は、
「他者」の「愉悦」のために傷つけられるほど無価値なものでは、絶対にない。
 
私は、闘います。