子供の頃の記憶がない!

「ものごころ」とは、何歳くらいからつくものなのでしょうか?
私には、子どもの頃の「記憶」がほとんどありません。
それどころか実は、中学や高校の頃の「記憶」もほとんどない状態です。
 
こんなことって、あるのでしょうか?
気になってネットを調べたら、こんなことが書かれていました。
 「記憶」とは、強い「感情」と共に想起されるものである。
 
・・子供の頃の記憶がないということは、その頃の「感情」が弱かったのかもしれない。
・・もしくは、何らかの事情により「感情」を感じることを禁じられていたのかもしれない。
 
親から聴いたところの話によりますと、
私が幼児の頃は、ものすごい大きな声で泣いていたのだそうです。
あまりにもお腹に力を入れて泣いていたため、
脱腸になってしまい手術を2回受けたと聴きました。
ということは、幼児の頃の私は「感情」が弱いどころか、
逆にとても激しい「感情」の持ち主だったようです。
ということは、「感情」を感じることを禁じられた線が濃厚かもしれません。
 
ただ、私には本当に子供の頃の記憶をほとんど思い出すことができないため、
どんなことがあったのかは、知るよしもない訳ですが。
幼児の頃激しい「感情」を持っていた私は、 
小学校、中学校、高校、そして大学、社会人と一転して、
「感情」の薄い「人生」を歩んできました。
よくよく考えると、
「喜ぶ」ことも「怒る」ことも「悲しむ」ことも、そして「楽しむ」ことすらも、
私は満足に感じることなく、「人生」を過ごしてきたのです。
その結果、私はきっと「人」より「記憶」のない「人生」を送っています。
 
「記憶」がないということは、恐ろしいことです。
だって、そんなのって本当に「生きている」って言えるのだろうかと考えてしまいます。
そう考えると、「感情」こそが「生き生き」と生きる源泉なのだと思う次第です。
 
そういったことに気づいて、考察を進めると、
私には巨大すぎて見えていなかった、
ものすごい「シャドウ」が存在していることに気づきました。
「シャドウ」とは、自分の中で禁止している「人格」のことです。
深く深く「シャドウ」の「人格」を禁じているため、
他者がその「人格」を平気で表に出しているのを目撃するだけで、
他者に非常に否定的で攻撃的な反応を示してしまいます。
しかし、その否定的で攻撃的な反応は、
他者に責任がある訳ではなく、あくまで自分の「心」の中の問題です。
ですから、自身の「シャドウ」に気づいたら、
その「シャドウ」としっかりと対話して、
「シャドウ」をしっかりと抱きしめて「承認」することが、重要となります。
(詳しくは、過去ブログ「シャドウにご用心」をご覧下さい)
 
話が脱線しましたが、今回私が見つけた巨大な「シャドウ」とは、
「喜怒哀楽」といった「感情」を「生き生き」と表に出す「人格」のことです。
私は、「感情」を「生き生き」と表に出すことを、深く深く禁じていました。
そして、「感情」を「生き生き」とたやすく表に出す他者を見た時に、
その他者に対して強く強く拒絶の反応を示していたのです。
 
このブログにおいても、「感情」は悪者になっていました。
「感情」はこの世の「理不尽」の源泉にもなるからです。
しかし、今回私は「感情」なしでは、
「生き生き」と「幸せ」に生きることはできないということに気づきました。
また、このブログでは「一生懸命」こそが「生命」の「本質」であり、
大切にしないといけないと主張してきましたが、
この「一生懸命」の一つの姿が「感情」なのだと気づいた次第です。
他者や自分の「感情」をしっかりと受け止めて「承認」してあげることは、
その人の「一生懸命」=「存在」を受け止めることとイコールなのだと思います。
 
「感情」について、再考する必要があるようです。
まずは、私の禁じられた「感情」を呼び戻すことから始めたいと思います。
 
「感情」を解放すれば、私の「生き方」や「人生」が大きく変わるはずです。
「人生」の「考察」を続けてきてよかった。
この「幸せ」探しの旅路にて、私は今大きな手応えを感じています。