「存在」論

マルティン・ハイデッガーという20世紀前半に活躍したドイツの哲学者がいます。
ウィキペディアこちら
彼は、「存在」するとは何か?ということを考えることに、
その一生をかけた哲学者でした。
しかし、彼は結局「存在」というものを定義しきれずに、
その生涯を閉じてしまいます。
 
「存在」するとは、どういうことなのか?
先日は、「無」についてブログを描きましたが、
「無」同様に、「存在」するということを定義することも、
実は非常に難しいことなのです。
 
実際に考えてみて下さい。
「存在」するとは、どいういうことなのか?
 
「ある」とか、置き換えの言葉しか出てこないのではないでしょうか?
(ご参考までに、「存在」のウィキペディアこちら。結構、難解です。)
 
この「存在」について、私も「考察」してみたいと思います。
 
現代は物理学が非常に発達していますので、
昔の哲学者に比べて、「世界」を解明する武器は豊富です。
私は、「量子力学」の考え方を使って、
「存在」を定義してみたいと思います。
 
量子力学」によれば、量子レベルのミクロの世界では、
物質は特定の一点に「存在」をしません。
様々な点に「確率の雲」となって、そこらにあるのです。
イメージとしては、A点にある確率が20%、B点にある確率が30%・・・という具合に、
うっすらと雲や霧のように広がっている感じです。
 
しかし、あることが起こると、
「確率の雲」がヒュバっと収縮し、物質は一点に決まります。
 
そのあることとは、「観測」です。
「観測」されて初めて、物質は一点に「存在」することができます。
 
すなわち、物質が「存在」するためには、
「生命」によって認識されたり感じられることが必要だということです。
逆に「生命」に観測されない空間には、物質は「存在」しません。
「確率の雲」として、そこには「確率」があるのみなのです。
 
以上のことから、「存在」するとは、
『「生命」に「認識」されている状態』と定義することができるかなと思っています。
 
この「世界」は、「生命」がいるからこそ、「存在」することができるのです。
 
ところで、我々「生命」の持っている「体」も物質と言えます。
「体」という物質も「生命」に五感で認識されているから、そこに「存在」できる訳ですね。
そして、「体」は「生命」によって動かされます。
「生命」は「意思」によって「体」を動かす訳ですが、
上記の「量子力学」の考え方に照らし合わせると、「体」を動かすとは、
「体」という「物質」の「確率の雲」の中から
「意思」によって任意の一点を選ぶ行為なのではないかなと考えています。
 
すなわち、「生命」には「確率の雲」を収縮させる力もあるし、
その「確率の雲」をどこの一点に収縮させるかということまで
選択可能ではないかと考えている次第なのです。
 
もし、「物質」の「確率」を選択することができるのなら、
超能力みたいなこともできるかもしれませんよ。
例えば、ものすごい低い「確率」ですが、
原子の合間を縫って「物質」が「物質」を通り抜けることがあるのだそうです。
この現象は「トンネル効果」と言われ、
量子レベルのミクロの世界なら「確率」として起こり得るのですが、
我々が認識するような大きな「物質」では、
ほぼゼロに近い「確率」となり、実際には発生しないと言われています。
(トンネル効果のウィキペディアこちら
 
しかし、「物質」の「確率」を選択することができるとしたら、
マジシャンのように「壁抜け」をすることも可能です。
また、何かを「発火」させるというような超常現象も、
「物質」の「確率」を選択できるのなら可能だと思います。
 
まあ、夢みたいな話ですが、
「心」の底から本気で「できる」と「信」じたら、
もしかしたら超能力を使えるかもしれませんね。
 
なにしろ、この「世界」は我々「生命」がいなければ「存在」できない訳ですし。
我々「生命」こそが、この「世界」の「主役」なんだと思います。
 
そう考えると、「死」ぬくらいで「生命」が、
この「世界」から「存在」しなくなることは想像しにくいかなと思う次第です。
ビッグバンで始まったばかりの若造の「物質」なんかよりも、
「生命」の方が、もっともっと永く「存在」し続けてもおかしくないよなと考えたりします。