「若さ」

先日、過去ブログ「いつも心にアンテナを」に81歳の方からコメントを頂きました。
そのコメントの中で、素敵な英語の詩を教えて頂いたのです。
 
今日は、その詩をご紹介したいと思います。
この詩の作者サミュエル・ウルマンは、
マッカーサー元帥が座右の銘とする詩を描いたアメリカの詩人です。

In the center of your heart and my heart there is a wireless station;so long as it receives message of beauty,hope, cheer, courage and power from men and from the Infinite,so long you are young.
When the aerials are down, and your spirits is covered with snows of cynicism and the ice of pessimism, then you are grown old, even at twenty, but as long as your aerials are up, to catch the waves of optimism, there is hope you may die young at eighty.
 
私は、この詩の本質的な意味を知りたくて、
上記の詩を、英語の翻訳家の方に和訳して頂きました。

あなたの心とわたしの心の真ん中には、無線局がある。

美、希望、励まし、勇気というメッセージと、

人々からの、造物主からの力を受信する限り。

あなたに瑞々しい心がある限り。



アンテナが低くなり、世をあざ笑う気持ちが雪のように積もり、

世を厭う気持ちが氷のように冷たくなってあなたの心を覆うとき、

あなたは老いてしまう、たとえ二十歳であっても。



でもアンテナを高く掲げて、屈託ない心の波動をつかまえる限り、

そこには希望がある、八十で世を去る時も、若い心でいられると。
 
4日前にも「感受性の高いあなたに」という過去ブログに別の方からコメントを頂きました。
そんな訳で、最近「アンテナ」「感受性」という「言葉」が、
私の「心」にひっかかっている次第です。
 
さて、「心」の「若さ」は存在すると、私は考えます。
それは、実年齢に関係なく。
 
その「若さ」とは、「感受性」。
「世界」を、「他者」を、無条件に等身大で受け入れる力。
 
確かに「世界」や「他者」は、鋭い刃を持って私達の「心」を傷つけます。
だから、いつしか人は「心」の扉に門番を配置するのです。
自分にとって都合のよい者しか入ってこれないように・・・
 
でも皆最初は、全てをあるがままに受け入れていました。
そう、赤ん坊の頃は。
「信」じるとは、「全てを受け入れる」ということ。
親を「信」じる赤ん坊は、親の全てを受け入れる。
 
でも「不完全」な世界において、それが高負荷であることに、私達は気づいてしまう。
 
ある者は、親からそのことを突きつけられて、全てを「信」じることを諦める。
ある者は、「信」じることを諦めた者からイジメに遭って、「世界」が敵であると認識する。
ある者は、「正直者が馬鹿を見る」現実を見て、「心」に入ってくるものを疑うようになる。
 
 あなたは「世界」を「信」じますか?
 
それでも「世界」を「信」じているとしたら、その人の「心」は若いと言えるでしょう。
「心」の「アンテナ」は高く掲げられ、「世界」からのエネルギーを受信し、
いつも「心」は瑞々しく、相手によって柔らかくその形を変え、
湖面のような穏やかな「感情」でいることができる。
 
もはや「世界」を「信」じていないのなら、その人の「心」は徐々に風化していく。
「心」の「アンテナ」は低く、「世界」から新たなエネルギーは供給されず、
少しずつ「心」は乾燥し、己の型に硬直し柔軟性を失い、
水たまりのように少しの風で「感情」にさざ波ができる。
 
「優しさ」こそが「心」の「若さ」の秘訣だと、私は考えます。
確かに「世界」は地獄ですが、そのことすらもありのままに受け止める「心」の強さ。
 
こんな「世界」だけど、この「世界」に生まれた「意味」は絶対にある。
 
「世界」を諦めた者は、苦しむ他者をも見捨てる。
その「苦しみ」には「意味」なんてないから。
 
「世界」を諦めない者は、苦しむ他者に手をさしのべる。
その「苦しみ」にも絶対に「意味」があるから。
 
どっちが「幸せ」なんだろう?
 
私はかつて前者でありましたが、その頃よりも後者である今の方が「幸せ」です。
「世界」の全てに「意味」があると捉えていれば、
「生」「老」「病」「死」の4苦も、実はさほど怖くない。
「死」にも「意味」があると感じれば、なんとなく「死後」にも何かあると直感できる。
もちろん「生」にも「意味」を感じていますので、「死」が来るまでは生き続けますが。
 
このブログのタイトル「優しい唄歌い」は、私がかつて描いた短い小説が由来です。
「優しい唄歌い」の唄は、人々の「苦しみ」に「意味」を与えます。
人々の「苦しみ」を「心」の「アンテナ」で受信し、
自身の「苦しみ」とした上で、その「苦しみ」に「唄」で「意味」を付与するのです。
 
世界を拒絶しない「優しい唄歌い」の「心」は、永遠の「若さ」を保ち続けます。
本来「心」は、「モノ」である「体」と違って、老化するものではないのです。