「才能」とは、「権利」であり「債務」である。

「才能」とは、何でしょうか?
 
「才能」は、英語で「talent」もしくは「gift」と言います。
 
「talent」の語源を調べると、
重量の単位を意味する古代ギリシャ語「talanton」「talant」が由来のようです。
「talanton」や「talant」は、金や銀の重さを測る意味から、
貨幣の単位にも用いられました。
この貨幣の単位が「才能」を意味するようになったのですが、
それは、「才能に応じてタラント(金)を分け与える」という、
新約聖書「マタイ伝」のたとえ話から来ているようです。
 
一方「gift」はその名のとおり、
「才能」が天から与えられたものであるという認識から発生しています。
 
英語圏の国では「才能」に、二つの「意味」を見ているようです。
一つは、お金に換金できるような「個人の権利」として。
もう一つは、天から何かしらの理由により借りた「個人の債務」として。
 
この二つの見方は、一見相反するように見えますが、
実は矛盾していません。
簿記や会計を理解している人には、そのことがわかると思います。
上記の二面性は、
複式簿記」による「貸借対照表」という表でうまく表現できるのです。
 
「なんのこっちゃ?」と思う人も多いと思いますので、図で説明します。
例えば、銀行からお金を借りて機械を購入した場合の「貸借対照表」は、以下のとおりです。
<図①>

 
「機械」という「資産」を保有しますが、その提供者は「銀行」という「他者」となります。
上図の左側が会社の保有する「資産」を表現し、
右側がどこから提供されたのかを表現しているのです。
このように「貸借対照表」では、
左側に会社の財産目録を表示し、右側にその財産が誰から提供されたのかを表示します。
以下の図は、会社の状態を示す「貸借対照表」の構造図です。
<図②>

 
上図の右側が上下にわかれていますが、
「負債」は「他者」から借りた量、
「純資産」が「自分」で用意した量+「自分」で稼いだ量を表現する枠となります。
このように、会社の状態を把握する上で、
会社の資産が他人から供与されたモノなのか自前のモノなのかを区分することは、
非常に重要なことです。
 
さて<図①>の状態から、会社の保有する「機械」を使ってお金を稼いだとしたら、
以下ように貸借対照表は変化します。
<図③>

「他者」から借りた「機械」を運転させて得た「お金1百万円」は、
左側で「お金」という「資産」で表示され、
右側でそれが自前であることを示すため「純資産」の枠に
「剰余金」という科目で表示されるのです。
 
そして、儲かった1百万円を銀行からの借入金の返済に充てると、
貸借対照表」は、更に以下のように変化します。
<図④>

 
会社は、借りた「機械」を使って、銀行からの「借入金」を返済していくのです。
 
さて「才能」についても、この「貸借対照表」を使って考えてみましょう。
まず、生まれた時の状態を考えてみたいと思います。
 
私達が生まれた時の持ち物は、全て借り物です。「心」以外はね。
ただ「心」は、持ち物というよりは、本体そのものなので、
貸借対照表」に表現されない、会社の真の財産である「人」と同様だと考えます。
ですので、今回表現する「貸借対照表」には、「心」は非表示です。
<図⑤>

 
そして、私達は「体」を成長させます。
親の「愛」を受けて。他の「生命」を食べて。
<図⑥>

なんだか、借入がどんどん大きくなってきました。
 
さて私達は、どのようにこの大きな借入を返済するのでしょう?
それは誰かの役に立つことによって成されると、私は考えます。
 
「会社」の「貸借対照表」の右側を構成する実体は、「お金」です。
一方、「人」の「貸借対照表」の右側は、「心」で構成されると私は考察します。
 
親の産みの「苦しみ」、育てる「苦労」、「心」に染みいる親の「愛」。
食べられた「生命」の「苦しみ」。
 
様々な他者の「心」の働きによって、今の自分が構成されているのです。
親の「愛」もさることながら、食べられた「生命」の「苦しみ」を想えば、
今の自分には、莫大な「借入」があることを認識できると思います。
 
ならばこの莫大な「借入」を返すには、
「愛」をもって他者の「苦しみ」を減らしまくるしかないのです。
 
おそらく「仏教」では、
この莫大な「借入」を返済しきることを「悟り」と言うのではないでしょうか?
 
ただ、ここまで描いてきてあれなのですが、
食べられた「生命」の「苦しみ」とはどの程度のボリュームなのか、
考察しないといけないような気がします。
 
手話を使って人間と会話するゴリラのココや、
人間と言葉で会話するオウムが存在することを考えれば、
ある程度高等な動物には「心」があることは明らかです。
(過去ブログ:「泣いたゴリラ」「人間とおしゃべりする動物」)
 
私は全ての「生命」には「心」があると「信」じていますが、
それぞれの個体の「心」の分量には、おそらく多少があるのではないかと考えています。
 
想像の域を出ない独りよがりの考えですが、
そうだとしたら、
ゴリラの「苦しみ」>虫の「苦しみ」
ということが言えるかもしれない訳です。
 
そう考えると、人の「苦しみ」は、
「虫」や「植物」の「苦しみ」よりも大きな代償を伴うものであるかもしれません。
 
そう。「人」の「苦しみ」は相当深いのです。他の動物には見られない自殺をする程に。
 
どれだけ返済すれば「借入」を完済できるかは見当もつきませんが、
私達は与えられた「資産」を活用して、
他者の「苦しみ」を軽減する必要があるように感じます。
 
その際に、会社にとって「機械」にあたる「資産」が「才能」です。
「才能」をうまく稼働させれば、より多くの「苦しみ」を軽減できる。
「才能」は「機械」同様、使うために用意された「資産」だと思います。
 
さて「才能」とは、相対的なものです。
例えば、勤めている会社組織の中で相対的に秀でている能力やスキルがあれば、
それを「才能」と呼べると思います。
 
私も、今の職場の中で相対的に秀でている「才能」を磨いて、
組織メンバーの「幸せ」に貢献したいと考えている次第です。
その「才能」は、きっとそのために「与え」られました。
「ご縁」のある人々に還元するために。
 
またブログの「才能」も、もっともっと磨いていきたいと思います。
磨きに磨いて、インターネットの力を借りて多くの人の「苦しみ」を軽減できたら、
それが本当に私の「本望」です。
 
ところで、私は「生命」は全てつながっていると考えています。
ですので、「借入」の返済先は、どの「生命」でもOKだと考えている次第です。
 
「才能」の種類や「相性」や「縁」のよしあしにより、
私の力では「苦しみ」を軽減できない人達も確かに存在します。
例えば、私のブログを読んで何かを感じて頂ける方もいらっしゃれば、
そうでない方もいらっしゃるでしょう。
だから、「ご縁」があってより効果がある相手に「才能」を投入することが吉だと思います。
すなわち、実際の借金のように借りた相手に返済するのではなく、
返しやすい別の相手に返済することが、「心」の貸し借りでは推奨される訳ですね。
水が高いところから低いところに流れるように、
「心」の提供先も、苦しんでいる人や困っている人に、より流れるのが道理だと考えます。
 
この世には、私に「貸し」を作る「縁」を持つ人々もいれば、
私からの「返済」を受ける「縁」の人々がいる訳です。
この考え方を、図々しいと捉えるか?是非そうして欲しいと捉えるか?
 
私は、私の「生命」や「才能」を使って、
「与えるご縁」を持つ人々に最大限の「一生懸命」を提供したいと想う次第です。