「物語性」
私は今、生まれてから一番頑張っています。
私の目の前にあるのは、大きな「壁」。
その「壁」は、乗り越えられないような「絶望の壁」なのか?
今生で出会うべくして出会った「乗り越えるべき壁」なのか?
私は、「乗り越えるべき壁」と認識しています。
それは、今「あるべき自分」になるために「乗り越えるべき壁」なのです。
「人生」を「幸せ」に生きるために、
「現実世界」の「苦難」を乗り越えるために、
私は「物語性」というものを重視しています。
自分は「人生」という小説の主人公である、という「感覚」。
この「感覚」が「心」に根付かないと、
私達は「現実世界」の「苦難」を
誰かが面白がって与えた罰ゲームを受けているかのごとく耐えるしかありません。
だけど例えば、「苦難」が自分のために用意されたものだとしたら?
今目の前にある「苦難」は、あるべき自分に「成長」するための存在だとしたら?
「苦難」への対峙の仕方も、自然と変わってきます。
私は人よりも不器用です。
器用に仕事をこなす人々を見ていて、昔はとても羨ましく感じていました。
不器用な私にとって、目の前の大きな「壁」は相当に高い。
器用な前任者ならうまく登っていけたでしょうが、はたして私に登れるのだろうか?
だが、それがいい。
不器用な私が登るからこそ、その壁に「意味」があるのです。
他の人だったら、もっとうまく登るのでしょうが、
その分誰よりも、私は「一生懸命」「壁」を見つめて、「壁」のことを考えて、
「壁」に愛着すら持ち、「壁」を登ります。
そう、その「壁」は私を待ち望んでいる。
その「壁」は、私が「成長」することを待ち望んでいる。
現に「成長」を楽しんでいる自分が、今ここにいます。
他から見てどんなに無様だろうと、登ってきた「壁」の高さに私は誇りを感じるのです。
「成長」こそは、誰にも邪魔されないピュアな喜び。
器用な人に「おまえは無様だ」と鼻で笑われても、
傷つきながら苦しみながらも歩いてきた道のりがある私には、
「だから何?」としか思えません。
これこそが、私が長い間ずっと求めていたものなのです。
誰にも邪魔されないピュアな喜び。「生きる」喜び。
想えば、動物や植物たちは、皆現実世界の容赦ない「苦難」にぶつかり、
「一生懸命」生きています。
大雪の夜に、野良猫のことを想ったことはありますか?
彼らは、この寒さを一体どうしているのか?
凍えるほど寒いだろうに・・・・。
そのことを考えると、「世界」の残酷さに心底嫌気がさします。
しかし雪が止み、日の光が再び地上を照らす時に、
彼らに訪れる「喜び」はいかほどのものなのか?
「耐えきった」喜び。「生きている」喜び。
「生きる」喜びとは、乗り越えた後にやってくるのではないでしょうか。
もちろん私達人間にも、「苦難」は平等に訪れます。
そして同様に「苦難」を乗り越えたところに、
私達の真の「生きる」喜びがあるように想うのです。
「快楽」だけの「人生」を想像してみてください。
その「人生」に、はたして真の「喜び」はあるのか?
「快楽」だけの「人生」は、ある意味「地獄」でしょう。
死ぬ時に、一体どんだけ恐ろしい気持ちに襲われるのか?
一方、乗り越えた「喜び」を感じることができた時、
人は「死」をも受け入れられると、私は何となく感じています。
「生命」は、「生きる」喜びを味わうために生まれてきたのではないか。
そうならば、今こそが「生きる」喜びを知る時。
「心」折れない限り、どんな「壁」だって登ることができる。
ようやく出会った「生きる」喜びに、私は喜んで傷ついて、
「壁」に爪痕を残しながら登っていくでしょう。