「5W1H」で自分を考察する

あなたは、何者ですか?
私は、何者でしょう?
 
名前なんて、自分を指す言葉ではありません。
 
5W1H」で考えてみましょう。
 
名前は、「WHAT」。
でも、先に描いたとおり、名前は何者かを表す言葉ではないと考えます。
単に、その存在に貼られたラベルです。
 
じゃあ、「WHEN」「WHERE」?
2014年、日本の神奈川県に、私は存在しています。
これらの情報は単に、私が存在する座標軸を示すのみです。
まあ、当然この情報も、私が何者かを表してはいません。
 
それでは、「WHO」?
私は誰によって存在せしめられているのか?
「宗教」を持つ人は、「神」というかもしれませんが。
私の答えは、「我思う故に、我あり」。つまり「自分自身」です。
 
しかし今の私なら、そこにもう一つ付け加えます。
それは、「自分」を「モノ」ではなく「心」ある存在として見てくれる「仲間」です。
私の「心」を感じて、「心」の受発信をしてくれる「存在」があるからこそ、
私はそこに「存在」することができると考えます。
 
ふむ、「WHO」はちょっと保留にしておきましょう。
「答え」を探るのに、使えるかもしれない。
 
さて、「HOW」。
私は、どのように「存在」しているのか?
これも、重要っぽい。
ちなみに私は、「生存」するための「衣食住」の他に、
「仕事」をして「存在」しています。
 
「あなたは、何者ですか?」
「私は、○○の仕事をしている者です。」
 
これは、結構「答え」の核心に近いと感じます。
少なくとも、名前を答えるよりは、その人の「存在」を言い表しているような気がする。
そう言えば、ニュースで容疑者のことを言う時に、
会社員とか無職とかアルバイトとか、「職業」をつけて報道しますよね。
この「世界」もしくは「社会」において、
「職業」は重要な「アイデンティティ」なのでしょう。
 
でも、例えば「会社員」と言っても千差万別。
この「社会」は、そのレベルまでの理解で納得するとしても、
自分が自分に「何者か」を問う時には、まだ不十分です。
自分用の「答え」にするには、もう少し「HOW」を深く言い表す必要があります。
 
あなたはよく職場の人から、
「休みには何をしているの?」と聴かれることはありませんか?
それは、「HOW」を通じて、あなたが「何者か」を問うているのです。
 
「いやぁ、テレビを観ているだけだなぁ・・」とか、
「休日は寝ていることが多いよ」という答えだったとき、
質問者は、あなたを「空っぽ」の存在として観るかもしれません。
 
そう。「趣味」も、自分が「何者か」を示す重要な言葉なのではないでしょうか?
周囲の人は、その人の「趣味」を知って、その人をより深く知ろうとします。
「趣味」を持つということは、
自身の「アイデンティティ」を深める行為なのだと思うのです。
 
自身の「アイデンティティ」を深く感じることは、自身の「心」を安定させます。
ちなみに私の「趣味」は、「ブログ」で「人生」や「幸せ」を考察することです。
 
最後に、「WHY」を見てみましょう。
 
自分は何のために「存在」しているのか?
5W1H」のフレームワークで考えるならば、
このピースが埋まらないと、完全に自分を説明できているとは言えないことになります。
 
あなたは、何のために生きていますか?
私は、何のために「存在」しているのでしょう?
 
ここで、先程保留にした「WHO」を登場させます。
「WHY」は、「WHO」という意識体の存在なしには語れないからです。
例えば「WHO」を神とするならば、「WHY」は宗教の教義によって示されます。
 
「WHO」が自分なら、「WHY」は自分で決めた答えになるでしょう。
逆に言えば、「WHY」を持たない人間は、
「WHO」が自分ではないということになります。
生きる「目的」を持たない人間は、自分によって生きている訳ではないということです。
 
また「WHO」が、パートナーや家族や職場の仲間なら、
「WHY」は、パートナーや家族や職場の仲間からもらうことができます。
 
例えば・・・
 私は、パートナーのためなら死ねる。
 私は、家族を「幸せ」にするために生きているんだ。
 私は、仲間のために一生懸命働くんだ。
 
「WHY」が確定すれば、自身の「アイデンティティ」は完成します。
だからパートナーや家族や仲間は、生きていく上で大切なのです。
 
私は「WHO」を、自分と周囲の人々と捉えています。
私は、自分と縁ある人々によって、この世界に「存在」している。
 
「WHO」が見えると、「WHY」が決まってきます。
私は、自分の意思として、困っている人々を助けるために生きたい。
私は、私に「縁」を頂ける人々からの期待によって、
「縁」ある人々を護るために生かされている。
 
「WHY」が決まると、採るべき「HOW」が見えてきます。
 
私は、道に迷って困っている人々の力に少しでもなるように、
これからも「ブログ」を描き続けましょう。
私は、私に「縁」を頂ける職場の人々を護るために、
自身を磨いて職場のために尽くしていきましょう。
 
こんな私の生き方は、苦行僧のようにストイックに見えるかもしれませんが、
自分が「幸せ」になるためには、この道が最善手なのです。
「目的」なしに「生きる」のは、とても苦しい。
「目的」なしに存在していると、自身が「モノ」となってしまうからです。
「モノ」と相対する存在の「心」や「生命」には、「目的」が必要となります。
 
「モノ」である「遺伝子」が生み出す「欲望」に振り回されるのでなく、
生きる「目的」を「心」で決めて、
そのために「一生懸命」生きてこそ、人は「幸せ」に存在できるのです。